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虚無僧寺総本山鈴法寺☆総まとめ

普化宗総本山とされている鈴法寺の過去現在を徹底調査!

  

廓嶺山 虚空院 鈴法寺 


括惣派惣本山触頭

鈴法寺概要

法燈国師の弟子宝伏の門人活惣了という居士が開祖。

1250~60年はじめ 二代密雲哲秀居士が武州幸手藤袴村(埼玉県幸手市)に鈴法寺を開創した。

1532年(天文元年) 十七世・湛空巨円大和尚の時に、川越領葦草村に移り、中興開山と称する。

1596年(慶長元年)月山養風和尚の時に青梅に移る。

1871年(明治四年)太政官だじょうかん布告によって普化宗廃止。

1893年(明治26年)火災により本堂、庫裡、その他の建造物拝塵に帰す。


場所:武州多摩郡青梅村 
(現在:青梅市新町364)

遺跡:青梅市新町1丁目22-18 鈴法寺公園内
 
番所:牛込納戸町 
(現在:新宿区納戸町)
 
菩提寺:
金賜山東禅寺 臨済宗建長寺派 
青梅市新町418
    
月海山法身寺 臨済宗円覚寺派 
新宿区3-82

 
本尊:薬師如来



『新編武蔵風土記稿』三多摩編

「鈴法寺 境内除地五段六畝二十九歩、普化宗、諸流の触頭なり、廓嶺山と称す、本堂三間半に三間、本尊弥陀仏を安す、長一尺余の木像なり、客殿は三間半に四間、開山養風、是も慶長十九年吉野織部起立といふ、薬師堂九尺四方境内にあり」                   

『新編武蔵風土記稿』三多摩編


『新編武蔵風土記稿』とは、文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌。昌平坂学問所(林羅山が起源)地理局による事業(林述斎・間宮士信ら)で編纂された。1810年(文化7年)に起稿し、1830年(文政13年)に完成した。全265巻。


古老の話によると、本堂は南面し、その右に客殿と庫裡があって、本堂と客殿の間は渡廊下で連絡し、街道から三間くらい離れて総門をつくり、その脇に井戸があった。また往還に沿って、創建当時、野獣の侵入を防ぐため築いたと思われる土堤がめぐらせてあったとつたえている。

山下弥十郎著
「虚無僧ー普化宗鈴法寺の研究」



『武蔵国多摩郡御嶽山道中記』
御嶽菅笠「新町村」天保5年(1834)

山下弥十郎によると鈴法寺を描いたと推測されている。


総本山と呼称されてはいるが…

一月寺・鈴法寺は普化宗総本山と呼称されているが、寺社奉行は最後まで一月寺・鈴法寺に対して、普化宗総本山という呼称は用いておらず、あくまで「役寺」以外の何ものでもなかった。

森田洋平著『新虚無僧雑記』



「風呂後」という地名残る

鈴法寺の旧跡の跡に「風呂後」という地名が残っている所から、当初風呂屋を営んでいたかもしれないが、どうも廃寺やお堂に住みついたものが多いようだ。また昔は「一、嘯虎和尚話テ曰活惣派古ニハ火下派ト云ヒ凡論字トモ云ヘリト」(尺八筆記)とあるようにボロンジとも言ったようだ。これは一月寺の看我が暮露と無関係と言っているのと対照的である。

神田可遊著「活惣派の虚無僧寺調査」


歴代住職


開山  
活惣了 大居士 文永三(1266)年二月廿三日

二代  
密雲哲秀 居士 正応二(1289)年三月二日 

三代  
的応祖覃 居士 永仁五(1297)年九月廿二日

この頃に埼玉県幸手町(現在幸手市)藤袴村に寺を建てる。権現堂堤に藤袴の自生地がある。幸手は利根川水系による河川舟運と、鎌倉街道中道の人の往来で、交通の要衝として栄えていたとされる。

四代  
梅岩祖雲 居士 嘉元二(1304)年十月十四日

五代  
普賢了智 道人 正和三(1314)年八月十日

六代  
碧点寥大 居士 嘉歴三(1328)年五月十二日

七代  
雲月意風 居士 建武二(1335)年五月三日

八代  
寂瑞益順 居士 暦応三(1340)年七月十八日

九代  
雲外祖晫 禅師 延文二(1357)年正月廿日

十代  
徳堯心悦 禅師 貞治二(1363)年十一月廿九日

十一代 
察現是了 居士 永和四(1378)年二月十九日

十二代 
安存補穏 禅師 嘉慶二(1388)年六月廿四日

十三代 
秋道三智 居士 応永十二(1405)年十二月五日
十四代 
不混政易 居士 応永卅三(1426)年十月八日

十五代 
此行密休 居士 宝徳三(1451)年四月廿六日

十六代 
糺適不残 居士 文明二(1470)年十一月二日

十七代 
湛空巨円 大和尚 天文廿三(1554)年十月十七日 

この代の天文元年(1532)に川越領の葦草村に寺が移された。

十八代 
甲夢中 道人 永禄二(1559)年十一月六日

十九代 
山堂無月 禅師 慶長三(1598)年二月七日

山堂無月は殊に深く禅を極めたらしく、禅僧・一糸文守の文中にもそのことが出てくる。
1640年代(寛永・正保)
戦国時代、室町時代後期頃から江戸時代初期の公家、岩倉具堯ともたかの三男で出家して沢庵禅師に師事した禅僧、一絲文守いっしぶんしゅは後水尾天皇の帰依を受け、近衛関白、板倉京都所司代、烏丸光広卿と親交があった。気骨のある禅坊主で、室町中期の五山文学全盛以来詩歌に耽り酒に浸るのみで禅法の追究を忘れた禅会の堕落した弊風へいふうを激しく攻撃した。
この一絲が鈴法寺十九世山堂無月に与えた所謂「一絲和尚文書」が興国寺の古文書の中にある。一絲和尚の自筆ではなく、後世に書かれたものと目されている。その内容は尺八の由来、尺八の構造に関する屁理屈を述べた後、無月の普化宗徒としての禅的な生活態度を一応褒めてはいるが、無月の酒好きを窘めた文章で、別れに際して一筆染めたのではないかと思われる。文の最後には「浴びるように酒を飲んでも「すべから無色界むしきかいを観ずべし」と一絲が戒めると無月はケロリとして「牛は水を飲んで乳となし、蛇は水を飲んでも毒蛇となす」と答えたので、一絲和尚は冗談も至れり尽くせりで呆れたもんだと慨嘆した、とある。「衲僧が酒飲めば普化が酔払って上機嫌となり、鈴が一段と激しく鳴り申しそうらわん功徳がござる」とでも言いたい所であろうか。

値賀笋童著『伝統古典尺八覚え書』

⚠ただし一糸文守は、1608年生まれの為、現実的にはこの話は成立しなくなります。尺八研究家神田可遊氏にご指摘頂きました。


廿代  
月山養風 禅師 元和二(1616)年八月十四日

慶長18年(1613)、吉野織部之助正清の献げを受けて、寺を青梅市霞新町に移す。月山の父、秋山惣左衛門と、吉野織部之助は、埼玉県忍城の城主成田下総守氏長に仕えた者達であった。この時の経緯が『仁君開村記じんくんかいそんき』という記録にあり現存している、二十六枚綴じで同地の吉野家に原本が現在残っている。

廿一代 
円月無久 座元 寛永十(1633)年五月十三日

廿二代 
一法伝無 禅師 慶安元(1648)年二月十一日

廿三代 
万岌一心 和尚 元禄七(1694)年十二月廿五日

廿四代 
頓良祖隠 和尚 享保元(1716)年十月十六日

廿五代 
心月雲休 禅師 享保七(1722)年十一月廿一日(調布安楽寺の中興五世・十四世。大正寺に墓有り)

廿六代 
嘯山勇虎 禅師 明和六(1769)年十月九日
(調布安楽寺の中興六世・十五世。墓は伊勢原市の大福寺。

廿七代 
空山祖来 禅師 寛政八(1796)年六月廿三日

この空山祖来が描いた普化禅師の画像を、故宮川如山は持っていた。空山の代艦司の祖境が作った十七代から廿三代までの位牌は、東禅寺にあった。


廿八代
竹渓嘯虎 禅師 文政十(1827)年七月三日

調布安楽寺の廿二世。神奈川の神宮寺で亡くなる。「武叢禅林」 の扁額は彼がつくった。
山下弥十郎著『虚無僧ー普化宗鈴法寺の研究』によると、竹渓嘯虎の位牌が、東禅寺に須弥壇に安置されている唯一の遺物とのこと。

山下弥十郎著『虚無僧ー普化宗鈴法寺の研究』より


廿九世
空応騰雨 禅師 天保六(1835)年十月七日

卅代  
閑山戢我 和尚 天保八(1837)年八月四日

卅一代 
無着愛璿 和尚 天保十二(1841)年四月十日 

無着愛璿は一月寺にも出役しゅつやくしている。友鵞とともに清山寺も歴任。

卅二代 
澄源有道 慶応元(1865)年十二月廿七日

新宿法身寺の墓碑銘に記されている。

卅三代 
海我 

海我は尾張藩士の笹岡幸次郎の弟で旗本の出であった。文久三年十月に入宗し、明治四年の大政官布告で廃宗になると、代々の位牌を纏めて大きな位牌にし、普化禅師の像と代々の墓とを新宿の法身寺に頼んで、寺を去ってしまった。そして伊豆にあった末寺の竜源寺を経て、下田に向かったとのこと。その後消息不明。なお、鈴法寺の出役をしていた桑原宗成が、法身寺の近くに住んで、檀家として墓や普化像、位牌を守っていた。高橋空山は実際にこの人に会って話を聞いている。



新宿法身寺にある歴代住職位牌。


その他、過去帳、番所牛込納戸町所在の仏具等も新宿の法身寺に安置されている。


過去帳

山下弥十郎著『虚無僧ー普化宗鈴法寺の研究』より


過去帳に関しては、中塚竹禅著『琴古流尺八史観』によると、

縦六寸、横二寸、厚さ一寸の折本、表裏は黒漆塗の厚板、中身は古色蒼然として一見相当年代を経たものである事を物語っている。

いささか不審に思われる事、
イ、筆跡が殆んど同一人ではないかと思われる程よく似ている事。
ロ、記載の様式に一定の型ある事
ハ、古色蒼然たる割合に虫喰少なく、紙質も亦比較的堅固で破損してらない事。

と、不審点も記されている。


普化禅師像


千手観音像



吉野織部之助の記した『仁君開村記じんくんかいそんき


鈴法寺は、慶長十六年(1613)には武蔵青梅に移転。この時の経緯が『仁君開村記』という記録にあり現存している。二十六枚綴じで同地の吉野家に原本が現在残っている。


仁君は、将軍秀忠を指し、秀忠の|御仁慈ごじんじ》により、吉野織部之助が荒野を開墾して新しく部落を開いたという日記風の手記である。尺八に関係のある江戸時代初期の古文書で写本ではなく原本が残っているのは極めて珍しい。虚無僧となった元同僚の子、秋山惣太郎との出会い、青梅での開墾の様子など書かれ、その後に記載は、村の形成の苦心談が日記風に続いている。織部之助が晩年になって書き残したものといわれれる。


翻刻されたもののコピー。(神田可遊氏提供)



吉野織部之助

 
青梅新町を開拓した人物。

御岳神社にて。

武蔵野開拓の祖、吉野織部之助正清は大和国吉野の生まれで武蔵忍城おしじょう(武蔵国埼玉郡忍、現在の埼玉県行田市)城主、成田長泰ながやすの家臣であった。天正十八年豊臣秀吉に攻められ落城の折、師岡村に来て土着し、村の村長となった。当時武蔵野の台地は一望無限の荒漠たる原野であったが、織部之助はこの開拓を志し代官の許しを得て、慶長十六年近辺18ヶ所村より同志を募り、血と汗の努力と六年の歳月を費やし、元和二年遂に一邑開発の大業をなしとげたのである。後、武蔵野開拓は江戸幕府の奨励により、八十余の新田が開かれた。


青梅鈴法寺の始まり

1590年 
行田の忍城、秀吉方に攻められて落城。忍城は室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城された。落城後、城主成田氏の家臣、吉野織部之助は帰農して、下師岡村の土豪的農民となる。この吉野氏は、南朝の楠木氏の分かれであるとのこと。
その後、織部之助は霞村青梅で開墾を始める。
1613年 
吉野織部之助が新田開発を始めるため、井戸掘り職人を求め行脚。
その途中、埼玉県入間郡柏原村(現在の狭山市)の親戚を訪ねた時に、偶然、忍城落城の時に戦死をした仲間(秋山惣右衛門)の子、秋山惣太郎と邂逅。秋山惣太郎は虚無僧となり、月山養風と名のって川越の葦草村の鈴法寺の住職をしているという。織部之助が新田開発の話をすると、是非そちらに移りたいというので、お安い御用と引き受けて、屋敷三軒分の土地に草庵を建て、井戸を掘り寄進した。青梅新町村に移っても「鈴法寺」とした。
織部之助が月山に、旧姓をとって秋山に変更したら如何と聞くと、秋は名月を愛づる故に月山としたと云う。
1616年
開墾され移住者が増えると、産土うぶすな神社が求められ、新町村の開村を期して、大和の吉野から「金峰山権現」を勧請し、「御嶽大権現」として祀る。明治四年(1872)、御獄神社と改称。同じく、葬式をするのに寺が必要であったのと、幕府が宗門改めを担当する寺を要した為、根ヶ布ねかぶの天寧寺に新寺の建立を願い出るが、派遣僧が居なかったため、羽村の一峰院から秋岩和尚を招いて、屋敷五軒分を寄進し、「東禅寺」を開創。場所が開発地の東寄りで禅寺であったことからこの名前がついたとされている。


『仁君開村記』の修飾と虚構

森田洋平著『新虚無僧雑記』によると、『仁君開村記』の中のいくつかの問題点が指摘されている。

  1. 序文にある将軍御鷹狩りはフィクションであろう。

  2. 吉野織部之助の同僚、秋山惣右衛門の討死の記述の矛盾。

  3. 「虚無僧」という表記から、後から日記風に編集されたものと推定。



鈴法寺の遺跡


この「鈴法寺跡」の石碑がなぜ2つあるのかは、市の史跡から都の旧跡へと管轄が変わったからだそうです。小濱明人氏の講演会にて教えて頂きました。



鈴法寺跡公園の虚無僧墓碑

1)端堂義厚上座 施主疎影
<角形に無縫塔の彫物>

2)文政四巳星 微心思榮上座 七月十九日
<自然石>

3)當寺四世萬久一心座元 元禄七年十二月二十五日
<無縫塔>
→廿三代 万岌一心和尚の墓

4)刻文不明(無銘)
<無縫塔>

5)同上
<無縫塔>
 

6)同上
<無縫塔>

7)無銘 明和二酉年 
<無縫塔>

8)表面中決壊し不明
側面 時世 このゆきを花とはうその......
安永二巳年
<無縫塔>


9)円寂仙岳祖境上座
□月十四日
<無縫塔>


1と2の墓は歴代住職の法名に該当するものが無いので鈴法寺在任の役僧等の墓であろう。
3は山下弥十郎著『虚無僧ー普化宗鈴法寺の研究』に記載がなければ、刻文不明で全く何も分からない状態。
8の無縫塔には、伝承が残る。
地元の人はこの墓のことを元坊様(もとぼさま)と呼んでいた。耳の持病に効験があるとのことで、耳を病むものは、左ないにした縄をこの墓に結びつける。そして病がよくなるとお礼参りに行って縄を解いたのだそうだ。
今ではこの風習もすたれて、詣でる人が少なくなってしまった、と山下弥十郎は書いているが、今では少なくなるどころか、知る人は全くいないだろうと想像する。



鈴法寺の菩提寺、東禅寺




『新編武蔵風土記稿』三多摩編
青い印の方が東禅寺


東禅寺には竹渓嘯虎が書いたとされる扁額が保管されている。


「武叢禅林」  

 
 
長さ六尺、巾三尺六寸

鈴法寺28世住職(安楽寺22世)竹渓嘯虎(1827年示寂)が書いたとされている。鈴法寺廃毀の後、青梅市師岡町の妙光院にながく預けられていたため火災をまぬがれた。


裏に書かれた文。

廓嶺山虚空院額歴
世伋朽損再造焉筆
關其寧材甲陽乙黒
成機山守輔冠義奉
之參宗菅沼藤三郎
源定功別號華啓彫
刻焉
 文化十二乙亥年
    秋八月良辰
 鈴法寺守輔
   竹渓嘯虎司監

<内容>
鈴法寺の額が年を経て破損したので再興した。用材の欅は甲州乙黒の明暗寺(山梨県中央市乙黒)の明暗寺境内にあったもの、この寺の住職冠義が筆をふるい、掛宿けしゅくの虚無僧、菅沼蒔三郎(中塚竹禅によると藤三郎)、僧名華啓という人が彫刻し鈴法寺へ奉納した。



薬師堂

山下弥十郎著『虚無僧ー普化宗鈴法寺の研究』より
東禅寺HPより(現在は掲載されていない)


鈴法薬師といった鈴法寺境内にあった薬師堂。明治初年の普化宗廃宗後、東禅寺総門の傍に移建したが、2016年に再建され新しい薬師堂になっている。

新しい薬師堂

青梅街道側に建て替えられた。

薬師堂はこの建物と併設してある。

『新編武蔵風土記稿』の東禅寺には、

「薬師堂 二間余四方木堂なり 南に當り 路を隔たりここも除地の内なり 長一尺余の木像を安す 傍に庵一宇あり 留守の僧これに居る」
とあるので、1800年代に東禅寺にも薬師堂があったようだ。

大正の終わり頃、その移建した後の鈴法寺の薬師堂の須弥壇しゅみだんの下から、鈴法寺に安置されていた本尊仏や宗祖普化禅師像をはじめ多くの仏像が発見された。歴代住職の位牌もあった。しかし、仏体は、顔面、頭部、胴体バラバラになっている惨憺たる状況であったが、頭部を失った宗祖禅師の木造は高橋空山師が修理の約束で持ち帰られそのままという。二十八世の竹渓嘯虎の位牌だけは、原形をとどめ、補修の上東禅寺の須弥壇に安置してある。また薬師仏の厨子の扉の内面には、杉本鬼眠以下十三名宛左右に分けて、虚無僧の名が記してあったそうだが、これも今は無い。

この他、慶応二年四月、「廓嶺山虚空院鈴法寺 虚空院薬師宝前・竜源海我」と明記のある『銅製水盤』が一つ、東禅寺に残されていたというがこれもない。
海我は、鈴法寺最終三十三世の司鑑で、伊豆の功徳山瀧源寺の出身であった。


江戸後期に鈴法寺で起こった事件

江戸後期に鈴法寺で暴力事件があった。文政五年(1822)頃、鈴法寺の牛込御納戸番所の出役交替があった時、活惣派の数ヶ寺が、新出役の選任方法が怪しからんという不満から、上野こうずけ太田利光寺の貫主、楚雄そゆうが深谷の福正寺、小川の高円寺、沢目木ざむき(幸手市)の東陽寺、上峰(さいたま市)の松源寺、乙黒の明暗寺、両本寺吹合ふきあわせ山田如道、岩橋主馬等を語って、一味30数名が番所に大挙して押し掛け、新出役を拉致して暴行を加えた。一味は、寺社奉行所に捕らえられて処罰されたが、首謀者の楚雄は逮捕される前に逐電(跡をくらまし逃げる)して行方不明となった。一味の中に、一閑流の山田如道も加わっていたが、この如道は後に厚かましくも琴古と名乗ったので、琴古流の久松風陽等に激しく非難されて普化宗門を退去した。この新出役は、元安楽寺の院代をしていた泰巖であるが、この泰巖は初代琴古の時代の一月寺住職、仰雲泰嚴とは年代、派別の相違から全くの別人である。



鈴法寺調査を終えて…

鈴法寺について書かれた本は下記の通りたくさんあり、これをまとめるのは大変だ…と内心思っていたのですが、まだ補足を必要とするものの、一先ず終了。
20年ほど前に初めて鈴法寺公園のお墓と、東禅寺に訪れているのですが、お墓と扁額を見たのみ。昨年行った時もここまで詳しくは知らない状態でした。

こうして調べてみるとまたさらに感慨深い...。

そして今年、古典尺八楽愛好会で『鈴法寺探墓行』を企画したのですが、春先から調整で6月になり、なんとドンピシャで台風が来るという事態に。
東禅寺のご住職に不明点を聞いて鈴法寺調査を完結しようと思っておりましたが叶わず…、が、ちょうどその一週間後に開かれた虚無僧研究会の小濱明人氏の講演会にて、薬師堂の再建のことを知ることができました。鈴法寺を含め、今現在の虚無僧寺情報が一冊の本になることを密かに希望と期待をしております。(小濱氏への特定の虚無僧寺調査への圧がかかっておりました笑)
話は戻り、あとは、竹渓嘯虎の位牌、鈴法寺井戸跡の石碑を確認と、法身寺への墓参りを残すのみです。
今回も、多くの史料提供してくださった神田可遊氏に感謝申し上げます。そして調査をし書き残してくれている先人の皆々様にも感謝🙏

それにしても、虚無僧寺調査をしていると、「〇〇があったが今はない」の連発である。お寺にとっても、古いものや価値のないとされるものはあっても仕様がないので破棄してしまうのでしょうが…。東禅寺の薬師堂にはびっくりしました。


八基目のお墓が耳の病気に効くとは…、どなたかお試しあれ、ですね。
因みに「左ないにした縄」の「ない」は「縄をう」の「綯い」。この言葉ももう死語になってしまうかもしれない。
昨今は、縄を手に入れるのがまずは困難か。


史料提供
尺八研究家 神田可遊氏

参考文献 
神田可遊著「活惣派の虚無僧寺調査」
中塚竹禅著「探墓行」『三曲』
中塚竹禅著『琴古流尺八史観』
高橋空山著『普化宗史』
値賀笋童著『伝統古典尺八覚え書』
山下弥十郎著『虚無僧ー普化宗鈴法寺の研究』
森田洋平著『新虚無僧雑記』
山口正義著『尺八史概説』


古典尺八楽愛好会企画の『探墓行』にて、
「鈴法寺井戸跡」
の所在分かりました↓


古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇