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世を捨て道に出よう☆虚無僧になる生き方。

自己肯定が過ぎるコムジョの話

  

11月なのに昼間は汗ばむ暑さだったかと思ったら急に冬が来た。


…と、油断して風邪を引いた。




そんなこんなで、
とある虚無僧日和に思った、
とあること。


最近よく聞く「自己肯定感」。


Googleトレンドでは2017年頃から右肩上がりになっていたそうだ。


最近でもなかった...。

コムジョは色々遅れているのでご容赦いただきたい。


書籍も「自己肯定」のワードを含むものが年々増え、自己肯定力の講座まである。


この自己肯定について…、


ある時、

路上で虚無僧をし続けている自分は、これだけ人々の関心や共感が無いにも関わらず、要は需要が全く無いというのに、何と自己肯定感が強く、どれだけ図太く生きているのだろう。

と、ふとこの「自己肯定」という言葉を思い出したのでした。



そこで、


最強な自己肯定感を持つ為のヒントをここに書いてみようと思う。


その前にお断りしておかなければいけないのは、私は自信家ではない。

こどもの頃からアホアホ言われて育った。要はお勉強は苦手。ついでにスポーツも苦手。記憶力もこどもの頃からかなり悪い。母親には「ボケ老人」というあだ名をつけられていた(本当です)。そして気がきかない。

親から褒められた事も無く、そういう世代でもあるが、かえって小さな事を褒めてくる大人に対して懐疑的だった。


その、けなされて育ったのがもしかしたら良い効果だったのかも知れない。


ああ、アホで良かった。アホだから仕方ないのだ、

と、自分のハードルがかなり低くなり、自己肯定感を、自分自身の中に肥大させていくことになる。(褒めて育てるという最近のやり方はどうかと思っている)


こうすべき、ああすべきもアホには必要ない。


なにしろ自由なのだ。



そこで、ある文学作家に出会う。
ヘルマン・ヘッセだ。

ぼくが存在しているのは、詩をつくるためでも、画をかくためでもない。ぼくにしろほかの人間にしろ、そんなことのために存在してはいないのだ。そんなことはみんな、ついでに生じてくるだけである。どんな人間にとっても、真の天職とはただひとつ、自分自身に到達することだ。
かれが詩人としてまたは狂人として、予言者としてまたは犯罪者として終わろうとかまわない。
それはかれの本領ではない。それどころか、そんなことは結局どうでもいいのである。かれの本領は、任意の運命をではなく、自己独特の運命を見いだすこと、そしてそれを自分のなかで、徹底的に生きつくすことだ。それ以外のいっさいは、いいかげんなものであり、のがれようとする試みであり、大衆の理想のなかへ逃げもどることであり、順応であり、自己の内心をおそれることである。

ヘルマン・ヘッセ『デミアン』



自分自身に到達するって何だ。

自己独特の運命を見いだし、徹底的に生き尽くすって何だ。



この言葉に出会ってしまった若かりし私は、それ以外のことは一切無用ということで、自分自身に到達するために力を注ぐことになる。


かといって、特別な人生を選択して歩んでいるわけではない。

単純に、

自分自身に正直になる。

それが自己肯定につながるのではないだろうか。



わりと思いついたことは実行してきた。

だが、それだけでも無い。



ひどく悩むことも多い。

自分に正直になる為には、とてつもなく悩む。

悩んで悩んで悩み尽くすのだ。

もう無理。

となるまで悩み尽くすのだ。


これは自分自身を徹底的に生き尽くすことに繋がる。

自己独特の運命を見いだす為に、ついでに生きているのだ!悩んでも仕方がない。



そして、虚無僧をする真の理由は、もう一つある。




自分自身の存在そのものの表現活動なのだ。

欲にまみれたこの社会に対する非難であり嘆きであり嘲笑であり嫌悪なのだ。

人間が、全く人間らしく生きていないこの世界に、そしてありのままで美しい芸術を破壊する人間に、私の人生という時間を、この虚無僧という行為で抵抗しているのだ。

私の存在そのものが権力にとっては脅威なのだ。




どうだ、まいったか。




一応、「自己肯定感」とは簡単に言うと、読んで字の如く、ありのままの自分を認めること。
具体的に言うと、前向きに失敗を恐れず自ら責任を持って行動すること。

これって当たり前のことじゃないのか?



他人の目が気になるという理由で自己肯定できないのなら、私より酷い妄想だ。
自己肯定も自己否定もただの妄想に過ぎないということだ。



ところで、
ここまで書いておいてなんですが、

虚無僧をするのに自己肯定は必要ない

中世の頃、自然発生的に生まれた乞食芸能者の薦僧たちに少しでも近づく為には、路上で吹くしかあるまい。


虚無僧になるには、或は虚無僧である為には、虚無僧が吹いていた曲が吹ければ良い

ただそれだけのことだ。
これも当たり前だ。



明暗三十七世の谷北無竹が言っている。

言ふものは吹かず
吹くものは言わず

「普化道」第一号
『対山譜拾遺 明暗三十七世谷北無竹集』



はい。汗



実践あるのみである。

「やるべし、やるべし」


(酔っ払った時の尺八研究家、神田可遊師の口癖)



因みに、
「虚無僧になる」の行き先は路上死ですのでご注意を…。


古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇