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古典尺八楽愛好会企画で『探墓行』に行く👣一月寺☆萬満寺篇

昨年の鈴法寺『探墓行』に引き続き、今年は古典尺八楽愛好会のメンバーで一月寺『探墓行たんぼこうに行ってまいりました。


位置関係が分かりやすいように、一月寺『探墓行』地図を作ってみた♪

萬満寺は一月寺の菩提寺。共に禅宗で、水戸街道沿いにあります。昭和30年代頃、一月寺が日蓮正宗に売却され、虚無僧の墓や石塔はその後流転し、最終的には萬満寺に移設(改葬)されたとのこと。中塚竹禅師が一月寺『探墓行』に来た時はまだ一月寺跡に虚無僧の墓はあり、移転したのはその後。戦後の事と思うとわりと最近なのだ。



まずは、

馬橋まばし駅に集合!

JR馬橋まばし

萬満寺は駅からすぐ近くです。


早速全員で献笛。

快晴!


こちらで献奏する場合は、事前に人数などお寺に電話を入れておくのが良いと思います。

場所が分からない場合でも、ご住職が墓地に入る扉や場所など丁寧に教えてくださいます。



今回は、

一月寺・清山寺虚無僧墓碑群

整理整頓!


こちらの萬満寺には一月寺と末寺の清山寺の墓が混在しています。
一体、どの墓がだれの墓なのか!
現在わかる範囲で調べました。
尚、尺八研究家の神田可遊師の調査によると、一月寺から移動された際に台座と本体が入れ替わってしまったものも何ヶ所かあるとのこと。
ここでは、現在どのような状態なのか調べてみた。


一月寺歴代住職については前回の其の二をご参照ください↓



①自然石 
百十二世 宵海蛟竜しょうかいこうりゅう

<上段>  

② 箱形 
徴峯常雄首座 法信庵 享保十四(1729)年九月七日(清山寺)


③ 無縫塔 

二世鼓岩了波和尚から百三世まで歴代の墓 建立当寺百四世 寛算裏碩和尚  

④ 無縫塔 百五世 

仰雲泰巌ぎょううんたいがん座元 寛延三年(1750)七月四日 


⑤ 無縫塔 

判読不明

⑥ 自然石      

開山塔 

⑦ 無縫塔 

百六世 瑞鳳宗翔大禅師 寛政二年(1790)四月十六日

⑧ 無縫塔 不明 

〈台座〉百十一世 良運大暢和尚 天明四年(1784)九月八日 

⑨ 無縫塔 

判読不明(鉄透祖関のような…)

⑩ 無縫塔 

百七世 松蔭玄操大和尚 安永二年(1773)七月十三日 建立百九世 観道勇志 


<下段>

⑪ 角柱       
普化一月堂中興 紫寂院 贈 慈徳陽明尼仁 平成二十三年一月二十四日寂

⑫ 箱形       
千江秀廬座元 享保七(1722)年六月十日(清山寺)
佳雲林鐘座元 延享二(1745)年八月十五日(清山寺)


⑬ 無縫塔 

百二世 覚巌恵了大和尚 享保十年(1725)四月一日(一月寺墓碑の中で一番古い)


②と⑫の墓碑が清山寺のものです。

 <左側>


⑭ 唐破風付型    

判読不明
(読めそうで読めない場合は、季節・時間帯を変えるのがコツだそうな。あとは拓本でしょうか)

⑮ 光背型      

不明
(台座に何か刻まれています)

⑯ 宝篋印塔(ほうきょういんとう)

判読不明(うっすらと「居士」と刻まれているように見える)

宝篋印塔ほうきょういんとうとは、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種。
唐の沙門不空三蔵(中国の密教を大成させた僧)の訳による「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経」の教えの中から出た名称。本来は宝篋印陀羅尼の経文を納めたが、後には供養塔・墓碑として建てられた。


⑰ 廻国塔

奉供養大乗妙典六十六部為 安永三甲牛年(1774)正月吉祥日 二世安◯

経典供養塔のうち納経塔の一種である「廻国塔」は、釈迦滅後、弥勒菩薩がこの世に下生するまで、大乗妙典と呼ばれる法華経をわが国六十六カ国の霊場に保存する目的によって六十六部作り、それを一部づつ霊場に納める目的で国々を廻っていたこと、または廻っていることを銘文にした塔のことである。


<右側>

⑱ 遺墨墳

友鵞筆の碑「遺墨墳」についてはこちら↓




⑲ 南無地蔵菩薩 安永六丁酉天(1777)



以上、合計19基の墓碑、石塔があります。



ここで、

無縫塔とは?

起源は、唐の代宗皇帝の帰依が厚かった彗忠国師 (1)が臨終に際し、帝に望まれるまま「死後一個の無縫塔を…」と遺言したが、無縫塔がどのような形か解せる者がなく、先師の頌(仏の徳を誉め称える歌)に「見んとすればかえって難く…」などとあり、無形無相の塔であろうと解された。そして苦心の末に国師の墓は卵塔として生まれたと伝えられている。禅宗独特の思考から起こった名称といえよう。

庚申懇話会編『日本石仏事典』


 (1)【彗忠国師】 南陽慧忠なんようえちゅうは、中国の唐代の禅僧。越州諸曁県の出身。禅宗の六祖慧能の直弟子である。粛宗・代宗と2代の皇帝の参禅の師となり、慧忠国師と称せられた。慧忠の師、慧能えのう(638 - 713年)のものとされる即身仏(ミイラ)は広東省韶関市曲江区の南華寺に祀られているそうな。


この、卵型のお墓の形状は、僧侶たちが苦心して考えた末、作り出した形の墓だったんですね。無形無相を形にするとこうなったか…。



整理整頓すると、

◯2〜103歴代の墓 ③
◯102世 覚巌恵了 ⑬
◯103世 東江關月 ③
?104 世 寛算裏碩 ③を建立
◯105世 仰雲泰巌ぎょううんたいがん ④
◯106世 瑞鳳宗翔 ⑦
◯107世 松蔭玄操 ⑩
▲108世 鉄透祖関 観念寺に墓碑
✕109世 長運觀守 →除世か?
?109世 観道勇志 ⑩を建立
▲110世 鉄透祖関 観念寺に墓碑
?111世 良運大暢 ⑧台座に刻名
◯112世 宵海蛟竜しょうかいこうりゅう ①

108世と110世は同一人物の鉄透祖関で、観念寺に墓碑があり、109世長運觀守は除世かもしれないとのこと。

104世寛算裏碩、109世観道勇志、111世良運大暢、3名の墓が不明。⑤か⑨の無縫塔か、⑭〜⑯の石塔であることまでが判明しましたが、まだまだ要調査です。一つ一つの墓の前に何世の誰なのか説明板を設置したいところです。




大乗妙典ついて

一月寺の墓碑の中に二つ、大乗妙典つまり法華経に関連する石碑があります。

103世東江關月が、享保十六年(1731)四月、開山塔などを建立したのですが、台刻の碑文には「關月法恩を謝し、大乗妙典の一部を書写して、之を石筐(石の箱)し、これを塔所の徹底に拜納し、そして其の上に祖塔を立つ」とある。

大乗妙典とは、日本廻国大乗妙典六十六部経聖のことで、これは法華経。

⑰の廻国塔は、前述したように大乗妙典をわが国六十六カ国の霊場に保存する目的によって六十六部作り、それを一部づつ霊場に納める目的で国々を廻っていることを銘文にした塔のこと。
一月寺か清山寺にあったとされる廻国塔は1774年で、一月寺開山塔に刻まれた1731年とは年月の差がありますが、関連性があるのかもしれない。また開山塔にこのような納経塔の役目もあったということも改めて分かった。


法華経というと日蓮が広めたイメージですが、歴史は深く、遡ること500年代の中国杭州南の天台山で過していた智顗(ちぎ)がその経典に注目し仏教全体の教義を体系付け、天台大師と呼ばれた。

天台大師の教えを日本に伝え、比叡山を開いて教え弘めたのは、伝教大師最澄さいちょう

臨済宗は、武士を中心に広まっていたが、禅宗の布教をした栄西は天台密教の研究にも努めており、そのような歴史を鑑みると禅宗の根底にも法華経の影響があるのではということにたどり着く。



このポンコツな脳みそには納まりきらない宇宙よりも果てしなく大きく感じる仏教情報ですが、簡単に説明するとこんな感じ。

とてもじゃないけど奥が深い………。



やっぱり虚無僧たちはただ尺八吹いてただけじゃない?!



お次は、一月寺跡と松戸市立博物館への記録です🐾


参考文献
神田可遊著「一月寺歴代住職について」
中塚竹禅著「第八回探墓行」
 庚申懇話会編『日本石仏事典』


古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇