118.「カタカムナ文明のヤホ ヤチヨ ヤサカ マガタマ」

 今日はカタカムナ文明の「ヤホ ヤチヨ ヤサカ マガタマ
について書いていきたいと思います。 

ヤホ ヤチホ ヤサカ マガタマ

とは、「タカマクラ(宇宙球)は、始端と末端の極限が永遠的に循環して
居る」という意味であり、ヤホヤチホとは、数としては八百八千であるが、
ヤは極限を意味して天体に於て、生成、分化、親和、還元、極限、循環の変遷が、無限的にくりかえされている状態を表わしています。
 通例マガタマと言い習わさていますが、実は「アマとカムのフトマニのタマ」の意味です。
 アメ アマヒとは、「宇宙の諸天体も、アマの徴分されたアメから生成されたものでありその発生源はアマヒである」という意味です。
アマについては何回も述べてきましたが、要するに、アマとは、「あらゆるもののハジマリ」として、カタカムナ人が直感で感受して居た「始元の量」であり、それが、すべての現象事象の起源の「元」であるアマは、「目に見える事は出来ないが、すべてのものを生み、育て、そして又、すべてのものがそこに還ってゆく」という思念です。しかし、それだけなら一般の仏教、創造主等のイメージと変らない天地創成記の一種にすぎないようですが、カタカムナ人のサトリは、それは単なる観念上の想像から出たものでは無く確かに体覚的に感受できる「潜象の存在」である、という直感が基になって居り、彼らは、そのアマが微分された「アメ」の状態で、字宙の全域(アマ界全体)に、密充満にして敷かれて居る様相を観じ、又、そのアメの濃淡からウヅマキ流が起り、光以上の超高速で大宇宙空間を波及する力を直接にアマハヤミとして感覚していました又、アマの徴粒量「マリ」は、変遷してサヌキ電気とアワ電気の電気粒子となってムクミやカラミを表し、又、すべての物質の中に入りこんで、例えば原子核や細胞核のようにその生命を支配し、又、アマウツシの実体として、自分たちの身心に絶えず交流して居ると考えていました。
そういう気持が伝統となって、日本語ではアマという言葉で、「アマ始元量」を表わすと同時に、女性もアマであり天も海もアマとよんだのでしょう
カタカムナ人は、アマを空間的にとらえる時はマと言い、個々としてはマリになります。従ってマとは、個々のマリの集団系をさすと共に、それを生む空間(アヒマ)でもあり、言いかえればトキトコロの発生源でもあります。
 アマは宇宙球(タカマクラ)と全体に遍満していてマを構成する始元量であり、アメはその微分を示し、マリはその結球を意味するのです。それは、目に見えない潜態のまま、左マワリ右マワリに旋回しながら進行し
(マワリテメグル)
集合したり融合したり重合したりしてマ全体に渦巻いています。
 そして、宇宙の環境条件に応じて、マリは電気粒子(イカツ)となって「現象界」に表われ、磁気の力の位相を有ち、モコロを形成し、次第に目に見える諸現象、則ち、天体や、天体上の諸物質、カタチづくる「元素」へと変遷してゆく、それらの様相を述べて居るのが、私達が「カタカムナの直観物理」とよぶものです。
彼らは、潜態の中に更に根元的なアメとマリを感じ分けています。

カタカムナの文献には、他の民族の古代文学に多く見られる、商業の契約や、戦争の記録、又はウラナイや呪詛的ものは全く無く、彼らの直観したイノチのサトリと、そのサトリに基くクラシの知恵が、イキイキとうたわれて
居るのです。
アマイとは、「アマのヒ」という事です。
ヒとは、モトをさします。元とか玄とか源泉(カミ)とかいう意味のヒビキです。
 従って、アマヒとは、すべてのモノを形づくる根元(ヒ)であるところの、アマ始元量そのものを指すと同時に、更にそのアマのモト(カミ)則ち「アマのヒ」を指向する思念を含んでいるのですカミ・カム カタカムナ人のカミというのは「ゴッド」ではなく、川の流れの源を「川上」というように、すべて目の前に現われて居るものの、そのモトを「カミ」へ「カミ」へ遡って、その本質を、あくまで知ろうとする思念です。川下の、最も川口に立つ者にとっては、その川の水の流れてくる上流は、すべて「カミ」である。10キロメートル遡れば、その地点はもはやカミではなくなるが、カミは更に10キロ 20キロと遡り、無限的にカミヘカミヘと続いています。たとえ、その川の水の始まりを、山上の雨の一滴に突きとめたとしても、それで終りではないカタカムナ人の「カミ」とは、後代人が想定したような「神」ではなく、真に〈カミ〉としか言いようのないものを論すサトリでしたアメアマヒのアメは、潜象のアマの微分をさし天の「雨」の如き思念の呼名です。
 アマヒはそのアメを発現するカミ(起源)を示していますなお、アマとアマイ(アマのカミのカム)の関連については、次のミスマルのタマや次号のカムナガラのミチによって次第に明らかになってくるでしょう。
 カムとは、「カタチが見えない」という意味であり、その意味では、アマも、アメも、アマヒ等もカムです。
一般に「見えない」という時は、形が小さすぎて見えない場合も、大きすぎて見えない場合もあるそれなら、顕微鏡や望遠鏡が発達すれば、今まで見えなかったものも、スベテ見えるはずですが、いかに精巧な機械ができても、
目に見る事の出来ない、『潜象』の存在がある、という事に、カタカムナ人は気がついたのです。
 カタチが見えぬという事は、存在しないという事ではなく、又、カタチは
見えなくても存在するモノがある以上、直感の鋭い者には、体覚できる筈であるなぜなら存在する以上「チカラ」があり「ヒビキ」を伴わぬものは無いからです。
 しかし、この『潜象』の存在を追求してカミへカミへと遡ってゆけばゆく程、「奇妙サ量」は多くなりますカタカムナ人は遂に、すべてのモノの根元の、真の 『カミ』を把握し、その正体を表現する言葉としてはアマとカムと
いうしかない、とサトったのですカタカムナのカミとは、決して、人格化された神などではなく、「根源的な起源」の思念です。
 このような、アリノママの直感に基くサトリの言葉を、後代人が錯覚して「神」を設定してしまったところにムリもない点もあるけれども、実は、その心理が、今日の人類のマチガイのモトとなったのです「この世には、科学や常識では説明しきれないフシギな事がある」という話を聞いたり、
又自分で経験したりする時、その原因(モト)や起源(カミ)を知りたい、
と思う気持ちは、昔も今も変りはありませんカタカムナの人の特長は、そのモトやカミを追求する際に、直観性能が、非常に優れていたという事です。
その為に、彼らは、真実の正体をつきとめるまでに神秘思想や空想にソレたり、幻想をつかまえて錯覚するという事がなく、ズバリと、その奇妙さの
正体を把握し得たのです。
 このような性能は、一般の後代人は劣化してしまいましたが、個人的には、いつの世にも、優れた人があらわれ、その人なりの素質や知性の度に応じた表現を以て、めいめいの体験を示しています。孔子老子の教えや、釈迎やキリストの救い、ソクラテスやゲーテの哲学等々として、人類の古典と称されるものもそれでありますが、何といっても、「カン」の度に於ては、カタカムナ人のサトリほどの、明達さに欠くものが多いのもやむを得ないと思います。カタカムナの示しは、大モトから、カミの本質をつかみ、まず、宇宙の成り立ちから説明し、人々に根本の心構えを教えて居るそして、単に末端の生活経験を、オヤがコに、何となく伝承するという程度ではなく、非常に高度の物理に基く、「生命(イノチ)のサトリ」によって、生活の諸般にわたる根本的な態度と方法、則ち真の「クラシのチエ」の数々を、明示して
居たのです。
 私たちはカタカムナ人のような直感性能は無いれども、彼らのカムの思念を、追体験する事は決して不可能ではありません。しかしそれには、カタカムナの人達のような、簡単なサトシではついてゆけないので例えば、川を次第に遡ってカミへカミへとたどるように、解説する方も読者も、足もとを踏み違えず、マコトの川上を間違えないように誘導し、勘考を進めたいと念じています。

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