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スピリチュアルがわからない

  わたしは生き方の根底の部分に即物的なものがあるので、スピリチュアルというものが致命的にわからない。それが良いのか悪いのかの是非は一旦おいといて、アメリカナイズドされた資本主義を崇拝する生き様を謳歌し、現在進行形で若者的な退廃と堕落によって人生を成り立たせているのだ。



  どうしてこんなことを言い出したかというと、昨日の記事に書いた倉庫労働に少なからず関わりがある。わたしは今、新しいこと、未知のことを覚えなければいけない真っ只中なのだか、こういう時にあたっては少なからずスピリチュアル的な考え方が必要になってくるからだ。



  ここで一旦、回想に入らせて欲しい。私は小学生から高校生まで師事していた塾の先生がいた。彼は京大出身のインテリ男であり、クイズと数学とルービックキューブが好きな面白メガネ男だった。世の中には頭が回りすぎる人間を”ずる賢い”、”狐のよう”と言って嫌う人もいるけれど、私は普通に頭のいい人のことを尊敬しているので、彼のことも尊敬していた。



  彼はよく、言われているその場ではよくわからないことでわたしに注意を授けた。後になってみれば彼の意図がわかることも多かったのだけれど、注意されている最中は全くもってなんのことだからわからないので、「彼には私の見えていない世界が見えているのだ…」ということを頻繁に感じた。彼の見ている世界の次元は私のものより一段高く、そこからは私の見えないものがふわふわと浮かんでいるのが見えるのだ。彼の洞察力と脳内コンピュータから導き出された言葉は、見えない世界のことをうっすらと感じさせるものがあり、その度に私は”ほへー”とあんぐり口を開けて注意を受け入れていたのだった。



  そしてわたしは今日、久々にそのことを思い出した。私についてくれた先輩社員が新しい仕事について教えるとき、わたしは”何かよくわからないけれど言われた通りやって見ると、なんか上手くできる”というあの感覚を久々に感じたのだ。このとき私は「noteでスピリチュアルについて、いっぱい斜め読みしておいて良かった…!」と、進研ゼミの漫画に出てくる学生みたいなことを思った。



  ソクラテスは”自分自身が物事について理解していないことを自覚するのは難しい”という無知の知の概念を唱えた。だからもしかしたらわたしも「世界のことなんもわからん…」という感想さえ持っていれば良いのかもしれない。とはいえ、わたし程スピリチュアルについて理解しない人間もそうそういないだろう。おそらくわたしはこれからも幽霊を見ることはできないだろう。難しいことを考えると頭がパンクしてしまいそうになるので、見えない世界に関する深い洞察を巡らせることもそんなにできないと思う。



  多分わたしはこれからも浅はかで刹那的な生き方を続け、難しい精神世界については人に教えを請いながら生きていくと思う。世の中は適材適所なのだから、こういう生き方をする人間だって許されても良いと思っている。


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