見出し画像

poolについて書こうとしたら、yutoriの2018年を6522字で振り返ることになった。

**1月 **

古着女子を相変わらず一人で運用していた。数字の勢いはむしろ増し、1日1000人のペースで増加していた。

好きなことが事業になるチャンスは滅多にない。アカツキにいた元起業家の先輩らに相談しながら、これをどう広げていこうか模索していた。

yutoriという名前は、古着女子を立ち上げた数日後に思いついた。自分の好きを突き詰めるのはありのままの自分を認めるということ、そして、そのためには長い目で人のことを捉える「心のゆとり」が必要だと思った。また、世代を代表する会社になって起業に対する価値観をアップデートしたいという気持ちも、生意気ながら。

なにより、自分っぽかった。大体、5分くらいで思いついた。

(昨年の12月くらいに自分で書いたメモ)

2月

ひょんなことから大学時代の友人、マツバラを思い出した。就活で出会い、その日に意気投合し、それから3ヶ月に一回くらいの頻度でご飯に行っていた。

聞けば、彼も転職先を探してるという。希望を聞いてみると、yutoriでも満たせそうだ。恥ずかしながら、その会社名を口にした時、彼は興奮していた。

3月に控えていた「FURUGI FES」に向けて一緒に仕事する(ほぼ彼に全任せする)事を決めた。

3月

およそ300枚のチケットが数日で売り切れた「FURUGI FES」の準備は佳境を迎えていた。イベントに参加してくださるインフルエンサーのうち、1名が絶大な集客力を誇るため、混乱が起きないように事前の準備を入念にしていた。

イベントは無事終了。初めて自分たちのユーザーさんに会い、作っているモノの匂い、色合いを感じることができた。

やっぱり、一緒にやるならマツバラだ。僕はアカツキを卒業することに決め、yutoriを創業した。

4月
初めての資金調達。兼ねてから好きだったエンジェル投資家の方々に会いに行った。

もちろん繋がりはなかったから事業計画書と、長文でのお願いを添付して、いきなり。結果、連絡をした全員が時間を作ってくださった。僕らが思っていたより、感触は良かった。今考えればめちゃくちゃありきたりな戦略と事業計画で小っ恥ずかしいのだが、何かを感じてくれたのかもしれない。

また、この頃は、並行して会社のHPを作ろうとしていた。当時は資本金もないので、クラウドワークスで開発を頼み、デザインは妹の友達の高校生の子にお願いした。

「最初に哲学や思想をシャープにするべきだ。」と、社会人1年目からの友達で、以前より壁打ち相手になってくれていたキルタに言われた。今後、関わってくれる仲間がきっと多くなるとなんとなく思って、だから根幹から定義するとしたら今だなと。当時はまだインスタの古着女子があっただけだけれど、自分の思想をちゃんと定義することで、yutoriから静かに小さい波から大きな波が起きて、いつか一つの渦になると感じていた。

作っていくと図で説明するには難しいなと感じた。僕は元々音楽をやっていたから、だったら「詩」にしようと言う話になった。今でも会社トップにある詩を、元バンドメンバーの優之介、キルタと作り始めた。

5月
調達の目処が立ち、いよいよプレスリリースの準備。自分たちが何のために会社を興すのか、今後ぶれないように自分の人生を1から見直した。幸い、ダサくても自分に正直に生きて来たから色んなエッセンスはすぐに見つかった。

ちょうどこの頃、三人目のメンバーであるカズマ(現:COO)がジョインしてくれることになった。彼自身、企業準備中で、実は登記するための会社印を取り寄せていたところだった。その週に、書類を出す予定だったらしく、滑り込みセーフ。理由は、「一緒になった先にどうなるか、全く想像できなかったから。」らしい。頭おかしいなこの人と思ったw

6月
人生で初めてプレスリリースというのものを出した。正直、仕組みが全く分かっていなかったので何から何までキルタにやってもらった。僕は、写真のディレクションや文書、内容自体を詰めた。ただの会社の設立リリースなんて誰が見てくれるんだろう、きっと身内に祝われて終わりだなー。まぁそれもいいか。などと、ぼんやり考えていた。

誰かにリアクションされるというより、自分たちのためにやっておこうという感じだったけれど、FBで1000いいねされたり、その日のランキングの1位になったり。驚きだった。

この時、僕たちが社会という海に対して投げた石はちゃんと波を起こすのだなと少し感じた。

同時に、初めてのECストア「イチゴイチエ」をローンチした。ユーザーさんにロゴや名前を決めてもらったり、体験を向上させるために包装を一点一点行ったり、とにかく古着そのものの付加価値向上の為に全体のUXを設計した。初速の反応は良かったけれど、今思うとビジネスとしては成立してないものだった。

7月
リリースラッシュがあって、色んな媒体からの取材依頼を貰った。中でも、プレジデントオンラインの記事はNewsPicksで2000いいねを獲得したり、その日のプッシュ通知にまでなった。 色んな人に古着女子やyutoriを注目してもらえ、舞い上がっていた。ただ、当時は取り巻く環境の変化についていけていなかった。

そして、初めてのオフィス移転。

移転パーティーもした。人数は15人くらい。本当にお世話になった身内だけを集めて開催した。汚いオフィスに謎のミラーボールをつけて、最後は拙いながらもスピーチをした。

(全16pの簡易的なスライドの締めは「yutori will be Utopia」だった。)

8月
この時は、既存のメディア運営やECストアは全て他のメンバーに任せつつ、僕は新規のブランド立ち上げのために常に一人で行動していた。当時は、ファッションデザイナーの繋がりもなかったので、古着女子からコネクトしたwebデザイナーさんにロゴを作って貰ったり、自分で直接工場まで行ってなんどもやり取りをした。

全く経験したことのないブランドの単独立ち上げは、凄く苦しかった。ファッションへの原体験は強かったが、あくまで見る側での話。作る側で他のプロフェッショナルと一並べにされた時に僕に誰かを熱狂させるプロダクトなんて作れるのだろうか?と悩んだ。

色んなファッション経験者の先輩にダメ出しをもらいながら、少しずつコンセプトを固めていった。オーバーサイズでスポーツテイスト、ロゴが前にくデザインで、誰かの主張を代替えする服。ナイキやアディダスのような疾走感のあるブランド。

ふと、シャワーを浴びていたら「ダボっと」という名前が浮かんだ。そこからは、早かった。「dabbot.」と英語にした時の響き、並び、すぐにロゴのイメージも浮かんだ。500案くらいのロゴアイデアの中から、10往復くらいして、最後の一つを選んだ。

ムービも含めて、満を持してローンチした。初日から在庫はほぼ完売した。まだまだ改善の余地はあるものの、ブラッシュアップすれば強いブランドとして成立するなと感じた。

9月
ブランドのローンチがおわり、ECストア9090のリニューアルも完了し、事業の成長に応じてキャッシュが増加していくのがほんの少しだけ感じられた。

同時に、これまでネットで展開していたものを上手く資産化できていないことにも気づいた。僕らが展開してるのはメディアではなく、コミュニティプラットフォーム。ユーザーやインフルエンサー、また、古着にテイストの近いクリエイターなど、少しずつ出来てきていたコネクションを集約させる場所がなかった。コメ兵の藤原さんとも相談して、リアルの場所はこの事業だと絶対に持った方が良いとのアドバイスを受けた。

初めてのブランドローンチ後は、間髪入れずに、初めての実店舗造り。苦しくもあり楽しくもある、0→1立ち上げがまた始まった。

(初期の企画書)

実は、僕は学生時代音楽をやっていたのだが、当時ライバル的な立ち位置にいたグループがあった。どちらも卒業ワンマンライブで600人を集め、有終の美を飾った。その中のシンキという男の感性が好きで、yutoriの哲学とも通じるなと思っていた。彼はフリーのデザイナーで、実店舗の立ち上げをしたことはなかったのだが、何かピンときた。早速アポを取って話した。程なくして、ほぼ全てを彼に任せる事を決めた。

10月
店舗の立ち上げを行いつつ、並行して、自分たちを改めて定義しようとしていた。僕たちは何のために存在して、どこへ向かうべきなのか?もう一度見直さなければ、正直長いスパンでの戦略が描けなかった。

実は、当時、リアルの場所を古着屋として定義し、複数店舗展開して行く予定で。来年からカズマは海外に赴任し、独自の仕入れルートを構築して、古着をインスタからハックする会社として古着ビジネスを中古に拡張していく予定だった。

しかし、何だか、自分たちで踏ん切りがつかなかった。本当にこのご時世、リアルの場所を複数持ち、コツコツビジネスをやっていくのか?それが僕らの会社を作った理由なのか?なかなか首を縦に振れなかった。

一軒目、駅前の店舗がオーナー都合によりダメになったことがきっかけとなった。0ベースで見直した時に、僕たちは古着が好きだっただけでなく、いま自分を表現できない強い欲求やコンプレックスを持った人たちのきっかけを作りたかったのだと思いだした。ミッションにある「臆病な秀才の最初のきっかけをプロデュースする。」だ。

また、振り出しに戻った物件探し。1週間後、途方に暮れながら訪れたライフトラスト下北沢店で、その日、朝にオーナーが駆け込みで持ってきた物件があるという。即、見に行く事を決めた。

1年間空いていた物件らしく、中をのぞいてみると色あせた水色にyutoriらしさを感じた。その場で契約を決めた。帰ってから、カズマと話していたら、彼が「なんだかプールみたい」と言い出した。それだ!と思った。

サメやクラゲが泳いでいて、ふとした時には命を狙われてしまう大海原は現代社会に通じると思った。それと同時に、poolという、人工的な守られた空間に、yutoriを見出した。すぐに、シンキに連絡した。1週間足らずで、15Pほどの企画書が上がってきた。

これをきっかけに会社の方向性が見えてきた僕たちは、古着の会社ではない、マーケの会社でもない、これまでの常識や考え方にとらわれないコンテンツを1から、僕たちなりにプロデュースする会社だと見えてきた。

僕らが勝手に決めている境界線は、実はもはや曖昧で。安易なジャンルによって分断され、価値の本質を見失うのはナンセンスなんじゃないかと。だとすると僕らを統合する要素は、なにか。僕らを一言で表すと、いったい何の会社だろうか。なかなか、これだ!と感じるものが出てこなかった。でも、何ヶ月も前につけた、すぐにおもいついた、あの会社名がガイドだった。

決定的だったのは、ちょうどBusiness Insiderの記事を読んでいて、「ミレニアル世代」という言葉を見た時だ。

ミレニアルコンテンツカンパニー、ぴったりだ。
ミレニアルコンテンツカンパニー、yutori。これだ。

10月末に出したプレスは、4月と同じくらいの勢いで拡散された。心から納得できる一つの言葉が浮かぶと、瞬時にその後の展開が浮かぶ。言葉は、大事だ。

11月
そんな事業の順調な成長と裏腹にこの時期は、人生で一番きつかった。共同創業した松原も離れることになってしまったからだ。当時、役員3人、正社員は無しで、インターンのみ(フルコミなし)。 喧嘩別れではないし、本人も続けたいけれど、なかなか難しいという状況だった。止む無しと判断した。

この間、2週間ほど、僕とかずまだけで既存事業の補填を含め奔走した。この時は流石に少しコタえた。そして、修羅場のかずまは頼もしいんだなってこの時に思った。僕はすぐ落ち込んでしまうから。

幸い、10末に出したプレスリリースの反響が大きく、いろんなメディアで掲載いただいた。WWDはまたNPで1000いいね、二度目のプッシュ通知をもらった。会社で初めてのwantedlyも開設し、応募は1週間数十件のペースだった。

そんな中、長野からやってきたwebデザイナーの子がフルコミで働きたいと面接を受けにきた。当時、今話題のスタートアップ他3社とうちを検討していたが、お互い何かを感じあったのと、カズマが住んでいるシェアハウスがちょうど一部屋空いてるとのことで、うちに来ることになった。 これまでと違う、強く優しい風がゆとりに吹き始めた感触があった。

気の流れというのがあるみたいで、その後、立て続けに二人、メンバーの入社が決まった。ひとりは僕のbosyuから連絡をしてくれた女の子。元mixiでゴリゴリのベンチャー女子、なのに、初対面のときの洋服がCreative drug storeだった。名前ははむっていうらしい。そのアンバランスな雰囲気が好みで、すぐに入ってほしいなと思った。彼女は、近しい業態のアパレル系の会社と迷っていたけれど最終的に僕らの新規事業が決め手になったみたいだ。

もうひとりは、アパレル経験が長くて某大手セレクトショップの本社にいるお姉さん。副業でブランド立ち上げを手伝ってもらう予定だったけれど、yutoriの雰囲気がすきで仲間に入りたかったらしい。安定を捨てて、結果を出しに来るスタンスがとても好きだった。もちろん、僕らも快諾した。

12月
あっという間に気がつけば12月、いよいよ大詰めだ。poolのオープン日は7日。オープンイベントとして二日間のフリマイベントを企画していた。当日のパニックを回避するための事前予約制チケットは2日目は即完売、1日目も80%程度の見込み。いずれにせよ、人がたくさん来る事は決まっていた。

しかし、1店舗がおじゃんになった事で、2店舗目の企画に入ったのは11月の中旬。そこから実際に施工に入ったのは11/26。およそ2週間ほどしか施工期間が残されていなかった。僕は祈るしかできなかった。w

シンキは毎日現場に出向き、細いかディテールの調整をしてくれていた。カズマもオーナーとなんどもやり取りをしてくれた。ハイスピードでの立ち上げは全てを完璧に準備してから実行するのは難しく、オーナーや工事会社からは常に詰められながら、なんとか形にしていった。

彼らから聞く、poolの日毎の変遷に、僕は胸が高鳴った。なんとか、イベント2日前に完成したその姿を目の当たりにした時、自分が全く関わってないのに、まるで自分が心と時間をフルにつぎ込んで出来上がったかのような感覚がした。ルーツ(根幹)の哲学を自分自身の本音で創り、その上で、クリエイターの本気を形にしてもらう。この空間が自分の手を全く介さずに、出来上がった美しさに興奮した。まさにシンキがpoolにおける1つめの「波」であった。

僕たちはプロダクトを持つ前に必ず詩を書いている。時には今回のように、曲にすることもある。全員が何のためにこの場所を作るのか?深いレベルで理解した上で、ようやく作り始める。

poolという名前を思いついた時、自己表現は段階的で合っていいと強く感じた。いきなり海の中で泳ぎ続けるのは難しい。だとしたら、同じようなルーツやバックボーンを持った。それでいて、違う色をキャンパスに描ける人たちで集まってもいいんじゃないかとここを作る時に思った。

17日に実施した「poolwave」では、同世代の起業家や活躍しているクリエイターら40人ほどが遊びにきてくれた。そこに集まった誰もが、誰かの承認を必要としない自分なりの色を持った人たちで、それでいて、誰かを否定しない不思議な空気感の持ち主たちだった。強い個性と深い共感はきっと両立しうる、poolの旗となる1日だった。

ここからどんな波が生まれて行くのか、誰よりも僕ら自身が楽しみにしている。この文章を読んで、少しこっぱずかしい気持ちになったあなたにこそ、よければ遊びに来てほしいと思っている。あなたの波をpoolから。ここは好きが溜まる、タマリバ。

東京都世田谷区北沢1-44-18 益信マンション1F「pool」

「洋服が好き」という気持ちで、好きな人と好きなことをやっています。