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◎保守政治家・村上正邦 「朝鮮人が木刀で殴られ、雪を血が染めた」

 私は昭和7年(1932年)に福岡県嘉穂郡の小さな炭鉱で生まれました。父と母はそれぞれ、「先き山」(リーダー)「後ろ向き」(助手)のペアとして一緒に炭鉱に入って働いていました。わが家は「炭住」と呼ばれる、鉱夫たちが住む長屋で暮らしていましたね。
 その後、福岡県田川郡添田町中元寺に移り、両親は英彦山の麓にある三崎炭鉱で働くようになりました。大平正芳元首相の後援会長だった三崎友一の会社である三崎鉱業が管理していたから、そう呼ばれていたのです。
 当時、鉱夫は差別されていました。同じ炭鉱で働いているからといっても、鉱業会社の職員と鉱夫では扱いが全く違いますから、たとえば職員は風呂に入れましたが、鉱夫は入れませんでした。また、私のような鉱夫の子供たちも小学校に行くと、「炭鉱モン、炭鉱モン」と言われて苛められました。
 しかし、朝鮮人の鉱夫たちはもっと差別されていました。たとえば、ある雪の日の朝、朝鮮人の鉱夫が縛られた状態で、坑内係から木刀で殴られている。殴られる度に、白い雪の上に赤い血が点々と染まる。みんなそんな様子を見ていた。私がお袋に「なんであんなことをされるんだ」と聞いたら、その鉱夫が「腹が痛い」と言って仕事を休もうとしたけど、仮病扱いにされて折檻(せっかん)されているということでした。その後、彼はボロボロになりながら坑内に連行されていきました。
 日本人の鉱夫だったら、こんなことはない。その時、私は幼心に「炭鉱モンは苛(いじ)められるけど、『第三国人』は同じ炭鉱モンからも苛めれるんだ」と思ったものです。

(出典:村上正邦「私が見た朝鮮人差別」『月刊日本』2018年4月号)

●解説
 村上正邦は自民党の政治家で、元労務大臣。2020年9月10日、88歳で亡くなった。宗教団体「生長の家」などの支援を受け、1980年の参院選から連続4回当選。92年に宮沢内閣で労相として初入閣した。タカ派として知られ、靖国神社への首相や閣僚の公式参拝を求めた。
 95年に党参院幹事長となり、99年には「志帥会」(現在の二階派)を結成。初代会長を務めた。同年には党参院議員会長にも就任。しかし、2001年に受託収賄疑惑を受けて議員辞職し、その後、同容疑で逮捕。実刑・収監を経て、仮釈放となった後は、個人事務所を設け、情報発信を続けた。この『月刊日本』での証言もその一つだ。
 幼いころの村上が殴られた朝鮮人を目撃したのは、たぶん、日中戦争突入の前後から日米開戦前後くらいであろうか。「第三国人」という語が出てくるが、この語が朝鮮人などを指すようになったのは戦後なので、これは村上が後から知った言葉を使ったと思われる。
 この時期でも、日本の炭鉱では機械化が十分進んでいなかった。このため、炭鉱経営では、どれだけ安い労働力を大量に投入するかが重要だった。だが、軍需景気のなかで、炭鉱での労働力確保が難しくなっていた。しかし、石炭を掘らずには戦争を続けることができない。そこで国や経営者がとった方策が、確保された労働力をできるだけ、長時間働かせるというものだった。そこでも朝鮮人と日本人には差別があり、いちばんの矛盾が押し付けられたのは朝鮮人であった。村上の証言からは、そうした現場の様子がうかがえる。