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生きてるから涙が出るの 現在地について22

「ロマンスの夜」中之島公演、有楽町公演、本当に素晴らしかった。
大好きな歌を盤石のバンドメンバーと共に奏でる姿は、それはそれは楽しそうで嬉しそうで、瑞々しくて生き生きとしていて、神々しくもあり妖艶でもあり、とんでもなく歌が上手くなっていて、1曲ごとに物語に引き込まれた。

宮本浩次が歌うと、まるでその歌のヒロインが憑依したかのような乙女になる。
それはなぜなのか。
感情移入して歌うことによって、彼の中の女性性に共鳴して純情可憐な乙女が現出するのでは…と考えた。それはおそらく、カバーされた楽曲が女性歌手の歌に限定されていることと、男らしさの追求を前面に構えるエレファントカシマシとの対照が鮮烈であるために、そう思わせるのだろうとも。

だが、果たしてそうだろうか…。
どうにも納得しきれない違和感があって、ずっとモヤモヤしていた。

…そうじゃない、別の理由があるはずだ。

なぜなら、歌っている宮本浩次自身の感情がたしかに存在していて、いわゆる憑依系イタコ型のパフォーマンスとは違うように思えるから。さらに、彼の歌う姿がその歌の世界へと時空を超えてしまうのは、なにもカバー楽曲に限ったことではないから。エレファントカシマシの青春の歌を歌えば、若次が現れる。女性性との共鳴だけでは、この若返り現象の説明がつかない。

このずっと解明できなかった謎が、my room と Abbey Road を経て、野音2023で青春の歌を聴き、「ロマンスの夜」でカバー楽曲を聴いて、ひとつの推論に到達しました。
うまく伝えられるかどうかわからないけれども、書いてみます。




もはや、SNSを見るのが日課になってしまった。
そこでは、同じ対象を愛するご同輩とはいえ、さまざまな考えや思いが飛び交い、賛同があれば懐疑や否定もあり、ちょっとしたいざこざが起こる場合もある。
そう、《人の思い》は十人十色。

そもそも、本心がどこにあるかなんてわかりもしない他人様の言動によって自分の気持ちが揺さぶられるのは、不毛だ。だいたい、物事は自分の思いどおりになんて、なるわけがない。
それよりも楽しいことを考えたいし、自分の気持ちも快適な方向へ持っていきたい。興味のないことは「ほんとぉー」「ほぇ〜」とスルーする我が推しの軽やかさよ。
つまらないことに心を痛めるよりも、自分が制御できることだけに集中する。自分の頑張り次第でどうにかなることなら、どうにかしたい。自分の頑張りではどうにもならないことには、固執しない。
そうすると、自分以外の事柄に対して怒りや嫌悪といったネガ感情が起こりにくくなる。そして、喜びを求めていく心の余裕ができる。自由な心を羽ばたかせることができる。
その解放された自由な心で描くのは、やはり自分が、何を、どう感じたか、ということになるだろう。
(この、自分の感覚/感性とだけ対話をして、鬱々を解決させるまでのプロセスの切れ味は、「ロンドン(少しパリ)日記」のパリ観光の件りをご一読いただければ、いかに聡明な考察によって結論に至るのかをご理解いただけると思う。)


ひと月ほど前、職場で若者S君と音楽の話をした。
S君は今年34歳で、ということはS君が人間やってる時間より彼らのバンドの歴史の方が長いわけなのだが、とてもクレバーで話していて刺激的。
 私「君がどうの僕がどうの、とか惚れたの腫れたの、じゃないんだよ。《生きる》ってことを歌ってるの」
 S君「ああ〜いいですね!実体がありますね!」
実体か。良いことを言ってくれる。

そして、

…唐突に俺は気がついた。

そうか、実体…
…《リアリティー》だ。

宮本浩次が心を寄せるのは、風であり、それが揺らす木々であり、見上げるのは月、願いをかけるのは星。新しい自分に生まれ変わらせてくれる昇る太陽。そして、それらすべてと毎日の暮らしを包みこんで見守ってくれる広く高い空。

君が僕が惚れたの腫れたの…だけでは、彼の歌にはならない。
涙が木の葉になったり、真珠になったりもしない。
歌詞世界の根幹は、他者に対してどう思っているか/他者からどう思われているか/どう思われたいか、ではなく、他者あるいは目の前に在る大いなる自然によっていかに自分の心が揺さぶられたか、が重要な要素になっているからだ。

「ロマンスの夜」で歌われた2曲を考察してみる。

“翳りゆく部屋”

輝きはもどらない わたしが今死んでも

“翳りゆく部屋”

強烈な表現が鋭く突き刺さる。今まさに目の前で失われようとしている愛情。加速していく部屋の暗さと壁の冷たさが、遠ざかってゆく靴音に追い討ちをかける。
だがこれは、「だから生きろ!」という歌なのだと思う。
自分が死んだら《自分の世界》はなくなる。でも自分が今、死んでも《世界》は続いていく。夕闇から夜の帷が降りてくるこの翳りゆく部屋も、朝になれば太陽が昇ってくる。何事もなかったかのように。その光を浴びれば、自分は今日も生きている、今日を生きるのだ、と実感せざるを得ない。
宮本がこの歌を選び、丁寧に歌い上げる響きには、荘厳な生命力が宿っている。

“愛の戯れ”

カバー楽曲の中では一番、彼のもともとの歌詞世界に近いような気がする。
失恋から立ち直るための手掛かりが、気丈さでも、嘆きでも健気さでもなく、相手によってかき乱された自分の心の動きを言葉にすることで、癒しを見い出していく。表拍の明るさとも相まって、宮本浩次的な感覚がある。
特徴的なのは、‘バカだね バカだね バカだね あたし’ や ‘好きだったのよあなた’ ではなく「〇〇〇が〇〇〇」構文。いわば「心がうたうよ」構文。

あなたには 愚かな事が
私には アゝ 救いになるのよ

“愛の戯れ”

苦いタバコのかおりが
すべてを空しくさせる

誓いの言葉が今は
すべてを空しくさせる

他にも

胸の奥を遠ざかる
昼下がりのやさしさや
暗いあなたの微笑み

=「昼下がりのやさしさや 暗いあなたの微笑み“が” 胸の奥を遠ざかる」の倒置、

冷たくさめた空気に
恋の終りを感じる

=「冷たくさめた空気“が” 恋の終わりを感じ“させ”る」の変形、

など、自分の思いをそのままではなく、相手の所業が自分の気持ちにもたらす作用を、倒置や助詞の効果を駆使して描写する。
加えて、‘あなたにはわからないの’ と ‘私にはわかっている’ の対句。
これらによって、‘カナリヤはもう鳴かない’ というラストの比喩が効いてくる。

このような文章のしつらいが、宮本浩次の歌詞の綴り方に近いように感じさせるのかもしれない。
これらの《自己分析/客観視点》が歌っている彼の感性に働きかけて、《リアリティー》を喚起し、歌に気持ちを乗せやすくさせているのではないか。そう考えると、“翳りゆく部屋” のあの力強さも腑に落ちてくる。

生きていると、他者との関わりの中で消耗する。
だから人は、慰めや救いを求めて歌を聴く。
だが、宮本浩次は他者との関わりは歌わない。その関わりが自分の心情に及ぼした事象を歌う。

例えば、“リッスントゥーザミュージック”。
冷めつつある恋を描く手法として、渦中の心境そのものではなく、失われそうな情景を淡々と客観視する。
あるいは、“七色の虹の橋”。
終わった恋を、時間が経ってから振り返って愛おしく慈しむ。

だが、カバー楽曲を歌いながら歌われている人物の感情に寄り添ううちに、自分以外の他者にも感情の主体としての《リアリティー》があり、その瞬間の心情描写も歌になり得る、ということに気づいたんじゃないだろうか。『ROMANCE』以降のソロ楽曲(特に “この道の先で” “十六夜の月” “rain-愛だけを信じて-” 3部作あたり)からは、そんな気配がする。

ならば、目の前の乙女は…?

カバー楽曲を歌う宮本浩次は、歌に描かれたヒロインが憑依したかのようにも、彼の中にいる乙女が表出するかのようにも見えるけれども、これはヒロインが、というよりもヒロインの《気持ち》が現れているのかもしれない。そしてこの現象は、「感情移入」という一語の説明では片付けられない、《歌手・宮本浩次》のインプット・アウトプット双方の合わせ技によって現出しているのかもしれない。

宮本は「歌いながら号泣した」とたびたび語っているが、そこで泣いているのは歌のヒロインだろうか。
いや、違う。泣いているのは《歌いながら号泣している宮本浩次》だ。
つまり、歌のヒロインになりきるから泣けてしまうのではない。ヒロインの気持ちを《客観視点》から感じ取って、共感してもらい泣きしてしまう《歌手としての宮本浩次》が存在している、ということにはならないか。

これこそが《リアリティー》。
聴衆の心に響く歌として、巧みに表現できる技術は備えている。発音や発声を、感情に飲み込まれずに丁寧に自在にコントロールするその技術を駆使して、歌いたいものとは。
それは、《歌手としての宮本浩次》が感じ取ったヒロインの《気持ち》。
この感じ取る力=《共感する感性》こそが、彼の歌に《リアリティー》を宿らせる。

『大人エレベーター』(サッポロ生ビール黒ラベルCM/2022年1月)で、「歌の上手さとは?」と問われた宮本は「歌っている人の気持ちが声に乗る」と答えた。
カバーされた楽曲たちは、あらかじめ誰が歌うかを想定して作られ、そのキャラクター設定の上で女性歌手が歌っている(ジュリー楽曲は除く)。それらの楽曲に新しい解釈を見い出したと高く評価されているのは、男性が歌うことによって別の視点が照射されたことと、その別の視点を歌声として表現できるだけの優れた歌唱技術への称賛も大きいけれども、歌手としての宮本が感じた《リアリティー》が歌声に乗っているからこそ、聴き手の心に深く届いているという事実は看過しようがない。

宮本が好んでカバーした楽曲の多くは、松本隆の作詞による作品だ。
作詞家が異性の一人称で歌詞を作るには、創造性と同時に繊細な共感力を要する。本来、感情や経験はジェンダーに左右されないものではあるが、人の感動を誘う説得力のある歌詞を作るには、創造と表現はもとより、その前段階として、まず共感があるはずだろう。
そういう意味においては、“飾りじゃないのよ涙は” のヒロインは、‘泣いたりするのは違うと感じてた’、‘泣いたりするんじゃないかと感じてる’ と自分の気持ちを客観視する。井上陽水は、共感を前提とした心象風景とそれを投影する客観描写が実に巧妙だと思う。

宮本浩次という表現者は、もともと鋭敏な感受性を持っていて、かつその敏感な感性で感知した心情を、自身の感動の熱量そのままに歌に乗せて表現することができる稀有な歌い手だ。カバーの楽曲たちによって、彼は既成概念や先入観、ジェンダーまでもしなやかに超越してみせたわけだが、カバー楽曲に気持ちを乗せるためには、まず歌の主人公に寄り添ってその心情を理解しなければならないのは言うまでもない。彼の驚くべきパフォーマンスを支えているのは、カバー楽曲を歌うことによってより研ぎ澄まされ、さらに磨き上げられたこの《共感力》なのではないだろうか。

松本は、宮本の歌唱に対して「このひとの歌はやさしいんだよね」と評した(『The Covers 松本隆ナイト!』第1夜「松田聖子&歌姫の名曲特集」/2020年4月19日)。
この言葉は、感情を声に乗せる表現力と歌唱技術はもちろんのこと、声に乗せる《人の思い》を感じ取るその《共感力》への最高の賛辞なのかもしれない。


どんな歌でも、歌で描かれている《人の思い》に共鳴する。
《人の思い》を彼が感じたそのままの思いが、声に、歌に乗る。
その《人の思い》を感じている彼がそこにいる。
だから、《リアリティー》がある。

もちろん、自作の歌であっても。

ならば、目の前の若き宮本浩次は…?

若返り現象は、若次が降臨するとか憑依するとか、時空を遡るとか、そういうことじゃない。
自作の歌の場合は、歌の主人公は彼自身なのだから《共感力》ではなくて、歌に想いが乗った瞬間のダイレクトな《リアリティー》だ。
若き日の彼に、あの時の彼に「なる」のではなく、あの時の彼が「いる」。
彼の中にいるあの時の彼の《気持ち》を、歌に乗せる。

ここで “化粧” について特筆したいのだが、筆者はこの歌にヒロインと若次の融合を感じてしまった。
‘愛してほしいと 思ってたなんて’。‘愛してもらえるつもりでいたなんて’。
世界とつながることを切望して、何度も挫折と敗北を味わって、その度に立ち上がってきた若次。
年月を経てソロ活動に踏み切り、愛されるにはまず愛することだと気づいて壮大な愛を歌えるまでに覚醒した現在から振り返ると、このフレーズには愛を求めていた若き宮本の姿が重なる要素があるように思えてならない。初演時の痛々しいほどのせつなさが吹っ切れて、人生の機微を飲み込んだ先の軽みを感じた気がした。

そして、あの歌。
「ロマンスの夜」招待状に「『歌手 宮本浩次』がロマンスにまつわる選りすぐりの曲たちを 最高の仲間たちと一緒に奏でる特別な夜です。」「この日のために用意された宮本の愛する珠玉の名曲たちが揃いました。」と謳われるラインナップに臆面も衒いもなく堂々と名を連ね、最高潮に盛り上がった歌。

新しい愛をいつでも探し歩いている
求めてるその気持ちが町中をかけめぐる
愛する力を求め続ける勇気を
本当の姿を見つける旅へ行こう

“あなたのやさしさをオレは何に例えよう”

勇気を携えて愛を求める旅は続く。

《リアリティー》とはすなわち、
あの日の彼が、今も彼の中にいるということ。
その彼の気持ちを感じている、今の彼がいるということ。
そして、今この瞬間を歌っている、ということ。

乙女の憑依、若次の降臨、
これらの正体は…、
宮本浩次が描いてみせる歌の世界が映し出すイリュージョン。
あるいは、歌っている宮本浩次の《リアリティー》。

《リアリティー》が幻影を見せるなんて、とんでもないパラドックス、
…まったく一切合切どこまでもメビウスの輪だ。


「ロマンスの夜」開催に合わせて発売された「ロンドン(少しパリ)日記」フォトブックは、パリのラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸やホテル、ユーロスターの車窓など、素敵な窓の写真がたくさん掲載されている。「ロマンスの夜」で披露されたカバー楽曲にも窓が印象的な歌が多かったし、ステージの背景も実に美しかった。

そんなフォトブックの写真の中でも心に残るのは、「エピローグ」の写真。
パリ北駅の待合室、窓から身を乗り出さんばかりにソファに膝立ちしてまで外を眺める後ろ姿は、まるで少年だ。
宮本浩次は、世界中どこにいても、今いる場所《my room》 から見える外の光景を、この世界のありようを、心の窓《歌》を通して、私たちに見せてくれようとしているのかもしれない。
だからあんなにも、窓辺で、光の中で、絵になるのかもしれない。


「ロマンスの夜」、素晴らしかったです。
公演成功おめでとうございました!





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