日本を恋愛先進国にするには?- 1

かねてより利用させていただいているNews Picksさんなどにおける人々の会話、行きつけのカフェにおける人々の会話内容などを聞いていて、みんな恋愛に興味を持っているのはわかるのだが、大抵の内容が愚痴、批判、いかに操作するか、など荒くれている。それらは恋愛とは言えないもので、人身売買かいじめか、詐欺か、そんな単語の方がお似合いである。

1. 日本におけるお決まりの恋愛パターン

歴史を辿れば日本はその昔お見合い文化で、その相手と暮らすことが義務だった。相手は家柄や親の知り合い、会社のつながりなどで決まったのだろう。つまりそこに自発的な協力や選択というものはない。もう少し時代が経つと人々はようやく「義務」の人間関係を離れて、自分たちで好きな相手を選択できるようになってきた。これは主にバブル期に見られる自由恋愛文化であるが、そこでの相手を選ぶ基準は大抵の場合「女性の外見」、「男性の資産」がメインだ。ここでアフリカ等の土着民族における人身売買的恋愛の構造がセットされた。こうして女性は着飾り、男性は多くの資産を獲得することによって恋愛市場での自分の価値を高めた。

しかしここで問題が生じる。女性の外見的美しさは持続可能なものではなく、せいぜい10年から20年で寿命を迎える。また、男性は男性で愛されているのは資産であり自分自身ではないと気付くに至る。ここで資産を失えば人間として失格というレベルの打撃であり、大抵の場合には他のライバルと金銭レベルを比べられながら値踏みされ続ける。こんなことでこの「冷たい家族」はおそらく崩壊寸前のところを世間体などの義務感だけでかろうじて維持されている。女性は「どうせ男なんて若い女に乗り換えるのよ」と言い、男性は「どうせ女なんて金が目的だろ」というお決まりの相互憎悪フレーズが完成する。

いや、それでもかろうじてまだ「家族」はギリギリ我慢の上で成立していたのかもしれない。しかし我々の世代に入ると人の移動量が劇的に増大し、ネットやSNSによって「出会い」が急増した。そうすることによって複雑性が増大し、1対1恋愛の成立可能性が怪しくなってきた。人々は常に相手の心変わりに怯える。そしてその不安感からこそ、まさに「保険」を用意せざるをえなくなるのだろうか。コンピュータの時代には二分法及び量的価値観がテクノロジーから不可避に人々の価値観に伝播しているとすれば、「相手が多いほど自分に価値がある」「相手の資産が多いほど自分に価値がある」そのようになって当然である。

この工業的な永遠発展世界観に何かのやるせなさを感じる人たちは恋愛市場から抜け始めた。若者の恋愛離れと少子化、そしてセクシュアルマイノリティの登場である。ある人々は恋人を3次元で探すのをやめて、「理想的な」商品として美しい部分のみが切り取られたバーチャルの存在を愛している。別の人々は恋愛及び人間関係をすっぱり断捨離して仕事に打ち込み続ける。「人間なんて信じられない。」などというお決まりのフレーズが発せられる。別の人々はかろうじて同性には可能性を見出した。同性愛の急増である。他にも自身の性別が間違っているのではないかと感じて、性別横断を始めたりしている人もいる。

しかし思うのだ。その「恋愛のモデル」(ここではバブル期の延長として金と美しさの交換)自体が間違っているのではないか?と。少し前、若者の間では「友情恋愛」が普及した。友達みたいなカップルである。それは友達ではダメなのか?

一体、恋愛と友情はどこで線引きがなされるのだろうか?また、我々が社会の人口維持のために、勝手に実現不可能な夢を構築され、押し付けられているようにさえ感じられる「恋愛」のモデルを離れて人間関係を構築することは可能なのだろうか。

続く。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?