意味の再生・その失敗

怒涛の夏が終わろうとしている。私はこのカタストロフの期間がいつまで続くか知らないが、少なくとも2010年以降、ずっとカタストロフ期に入っていて一向に落ち着く暇もない。どこに行っても、次の「秩序体系」と言えそうな場所はないらしい。ない、ということでは定常状態であるが。

ふと某事件について一応の決着がついた後、私はもしかすると某教授に八つ当たりしたかもしれないということに気づいた。と、いうのも私は前述の通り「拠り所」を失った後に、確実な基盤のようなものを探して数学に再び漂流した。にもかかわらず、わかってしまったことは数学の世界の中での「確実性」はただ外を知らないから、そこにあると内部の人が勘違いしているものである可能性が高まったからだ。その証拠に、その理論を扱っている人たちは世界に目を背けており、人間理解のほとんど全てを外しているにもかかわらず自分の理論は完全だ、とご本人が勘違いしているからその間違いに気づかないだけであるらしかったからである。視野を狭めれば「確実性」を認識できる、しかしそれには勘違いという代償を伴うのかもしれない。つまり、確実性の正体は「合っていない可能性」にさえ気づかない視野の狭さから作られるものなのではないか。そしてそうやって手に入る確実性を取り戻すべきか、ということに関してはわからなくなった。そう思った時に私はこの宗教に対してひどく落胆した。それはある意味で「神は死んだ」に近い感覚かもしれない。いや、分野によっては違うのと、人によっても違うということもある。

つまり、私はおそらく某教授に「数学にかけていた確実性の復活の可能性」をぶち壊された、という理由で思いっきり怒りをぶつけてしまったんだと、今更気付いた。というわけで、秩序の復活などというものは幻想でしかありえないような浮遊感覚に又しても陥っている。しかしあの独りよがりの宗教にはまるよりはまだいいだろう。出会った人が悪すぎた。いや、むしろ良すぎたのかもしれない。つまり、「どこにもこの人を、この人の言っていることを信頼しようと思える可能性さえない人」であるから、全くもって数学に期待せずに済む、という意味で。いずれにせよ、数学への少なくとも代数領域もしくは古典領域への期待が限りなくゼロに近づいたことは確かだ。

それで私は久しぶりにG. Polyaの「いかにして問題を解くか」を読んでみた。もう正直数学領域の人の文章は読みたくもない。また例によって外を知らないだけの絶対性を押し付けられるのがオチであるから、かなり距離をとって読んでいた。ポリアは「二つの問題A、Bがあり、Aの解がわかればBの解には完全にわかるが、BがわかってもAの解は完全にはわからない時、Aの方を野心的、Bを内輪的ということにする。」と書いていた。ああ、確率に触れた方の、さらには哲学領域の方に触れた方の人は多少気づいているのだろう。しかしポリアではまだ足りない。彼は結局「問いにはいつも答えがある」という前提を持っているように見え、さらに「問いの決定の尤もらしさ」に関する記述が見られないからである。問いの決定こそが、非常に難しいのではないか、と感じるし、さらに答えがない問いというのもかなりある。というより社会現象を扱う場合にはほとんどの場合それである。

文句ばっかり言っていてもしょうがない。私は数学に裏切られたことをおそらくこの2年間引きずっていた。が、言って見れば「期待する対象を間違えただけ」とも言える。あの某教授は、早めに気づかせてくれた、という意味では貢献的だったかもしれない。この領域に期待してハマってはいけない、と。笑 その古典領域は「そうであったらよかったですね」という絵空事しか表現できないのかもしれない。その世界は常に調和しており、不調和はなかったことにしてごまかされ、歴史を偽装する。私はもしかすると、そういう現実無視感覚に苛立ち続けたのかもしれない。そしてその絵空事は未開民族の固定的な秩序ならまだしも、現代のダイナミックな世界にはほとんど当てはまらないものとなっている。それが、彼らが自閉しており世界を無視して否定している理由ではないか。そういう世界では「現実」は絵空事認識で形作られているらしいので、絵空事を言わなければ悪いというような恐怖政治が行われているように見える。つまり嘘しかないような不毛なbotコミュニケーションに取り憑かれているような薄気味悪さを感じるのだ。

また文句になってしまった。そう、それで私はもう一度AIのフレーム問題を勉強し始めた。ここでは明確に、コンピュータの世界認識は、世界のそのものとはズレがあることを意識している。それをいかに現実に近づけるか、ということなんだろう。ああいう形式操作、というものはもしかすると人間がやってはいけない領域だったのかもしれない、とふと思った。おそらく人間がそこでいうコンピュータになろうとすると、何かしらの点においてかで「壊れる」。その「ロボットである事」を目標にしてしまった人間はあまりに不気味にうつるときがある。つまりは「対称性」の世界に生きているから、相手が持っている言語体系や意味関数が自分と異なるという前提を全く考慮することができないのだろう。そしてその世界では、みんなが自分以外のみんなを馬鹿にしており、人間に敬意を持たないことが一般化しているような空気が蔓延している。まるで安っぽいSFの世界に出てくるような、2世代前のコンピュータである。それはひどくおぞましいものであるように、私には感じられた。一部の人たちは違うらしいことは確認したが、古典領域では無理だろう。

周囲の「品の良い」人たちはおそらく数学領域の人にこのことについて言わず、「数学者は天才だから私には理解できない」とか言って表面を取り繕いながら、自分に利用出来る部分についてだけ利用し、本音では軽蔑していることが多い。それは果たして優しさと言えるのかは私にはわからない。それにそうして表面だけを取り繕うことによって、その「改善可能性」の芽をごっそり摘んでしまっているのではないか。その改善の可能性を示さなければ、世の中を捨て続けると思うし、本音の軽蔑の理由さえ知らない、というピエロ状態にいることになるのではないか。私はどちらがいいかはわからない、しかし何かはおかしいと感じたことは隠しきれない。

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