少しずつ明かされる真実

今日とある文章を読んで日本の欺瞞が明らかになった。私はつい数年前まで「なぜ日本人は嘘をつき続けるのか」ということにひどく悩まされていた。今思えばそれは「ハイコンテクスト文化」と呼ばれるもののせいで、かつ私がなぜか、その文脈を共有できていないことによるらしい。

その文章ではAIは数年前まで「地雷ワード」であって、「インテリジェント〜」とか「スマート〜」とかの別の言葉で表現されて水面下で続けられていたらしい。私はこの話を聞いた時にピンときた。なぜ私は全くAIとかかわりない都市問題を扱っていたにもかかわらず、AIのフレーム問題につき当たらなければならなかったのか。これはつまり関係を隠されていただけで本来はそこから派生した問題を扱っていたからである。私が扱っていたのはスマートシティの方だった。さらには都市問題の授業を受けていた頃、ジェイン・ジェイコブズの都市思想を勉強した。この話が、全くもって複雑系そのものの話なのである。そこにはウォレン・ウィーバーによるロックフェラー財団における科学史の講演について引用があったので、確かに科学史の流れを踏んでいるのである。

http://people.physics.anu.edu.au/~tas110/Teaching/Lectures/L1/Material/WEAVER1947.pdf

実際その分野の先生たちが意図的に嘘をついているのか、それとも表層だけを学んだからこそ、その「隠れたつながり」が見えないのかはよく知らない。しかしより起点に近い部分、つまりは海外の研究を見てみると、どうしても繋がってしまうのだ。

私はとても「嘘」に敏感な人間であるらしく、その人がどのような意図を持って嘘をついているのかまでは把握できないものの、「何かしらのズレ」に対してはすぐに把握できてしまう。それでふと思い出したことがある。私は学部の時に数学に興味を失った。というのも先生は「数学は役に立つ」などとプロパガンダのように繰り返しながらも、それがどう役に立つのかの説明が全くもって嘘くさかったからだ。これでは「真実」には全くもって近づけないじゃないか、と思ったからである。何かをごまかしているのだ。もしくはそこで思考停止している。

私はその後、あまり学校にはいかなくなり、学校に行ったとしても先生に聞いていたことといえば「生きる意味とは何か」とか政治や社会などその手の類の話だった。先生はいつも適当にごまかして答えていた。「君にももうすぐわかる」とか、「数学の勉強が足りないからそんなことを考えるんだ」などである。いや、そのような回答ではなく、なぜダイレクトに「生きる意味」についての回答をしようとしないんだ、とずっと思っていた、あの学科の人はいつもいつも何かをごまかしているんだ。最終的には「あなたみたいな人は死ねばいいんですよ」などと言われた。いや、だからなぜ一段階抜けてるんだ、「生きる意味」について答えてくれ、と。ハイコンテクストすぎるのである。そうしてその精神の内側から湧いてくる自然な疑問を封じ込めようとし、さらにはなぜそれが必要なのかわからないような本質ではない知識を押し付けようとした。

結局仕方なく、私はその問題について自分で考え続けなければいけなくなった。先生はいつもたいてい役に立たないのである。今になって思えばそのぐらいの悩みは誰でも考えたことがあるはずなのに、なぜあんなに隠蔽され続けたかも知らない。その当時の「友達」(単なる馴れ合いで、一緒にいるだけ不毛な言葉の通じない人たち)も、当然何の役にも立たなかった。いったいなぜ、あれほど何も考えてなかったのかもよくわからない。それでいて、卒業した後に先生と話す機会があり、「なぜ生きる意味について真剣に悩んでいた時に自己組織化の話を教えてくれなかったんだ」と聞いたらやや焦ったような対応をし、さらには「この大学の学生は何も考えてない」などと学生の悪口を始めた。そうやって偏見を押し付けて真剣に質問に答えなかったのは自分の方じゃないか、とかなり激しい怒りを感じた。私は大学院の時にはこのような不敬な先生にはあまり出会ったことがない。真剣に学生に向き合うような人たちが多かったし、学生も当然のように「生きる意味」を考えていた。

そう、それで大学院の時にようやくまとまった時間を持って、この封じ込められ続けた疑問を考える時間を取ることができた。見つかった納得のいく結論としては「ない」(「ない」けれども、何もなければ生きていけないので、何かしらの方法で自分で構築する必要がある)というものであった。ようやく自分が思っていて、それでありながら、なぜかそれを隠蔽し続けられていた言葉を見つける言葉にたどり着くことができた。「人間はわかりあえない」(言語の定義が違うから)という事実を否定し続ける古典社会主義は、「人間はわかりあえない(わかりあえない人もいる)」という事実を隠蔽しており、理想と現実を履き違えているだけのように私には思えたからである。「そうであってほしい」をまるで「すでにそうである」かのように言い放ってしまうような雑な人たちのことである。もう一つ納得のいく回答をした人がいた。それが人工知能の親、とも言えるマーヴィン・ミンスキーである。彼は『心の社会』において「答えられない問題」という章を書いている。その中では数々の答えられない疑問が挙げられているわけだが、そのうちの一つが私がずっと悩まされ続けてきた「生きる意味」だった。正確には「なぜ死ぬことよりも生きることが常に優先されるのか」である。これは今思えば古典社会主義の淵、だったのかもしれない。ミンスキーはその本の中で疑問に対する答えがあれば、その答えの妥当性はいかほどか、そしてその妥当性の妥当性はいかほどか、といったように無限後退に陥るためにその問題には答えられない、ということだった。このあたりで社会に多く見られた嘘つきたちに対するムズムズがマシになった。どこに行っても嘘ばっかりだったのである。世の中にはそういう嘘つきだけでなく、このように自分が感じている疑問を素直に表現する人がいるらしい、ということで私は世界に対する諦めが少しずつ回復して学問にのめり込んでいった。

東大にはそういう自然な疑問を隠さない先生や学生がたくさんいた。それが安心感につながった。疑問に思ったことを疑問だ、と言っていいという安心感である。偽善者たちは、そして世界のことを何でも知っているとでも言いたいかのような傲慢な人たちはそれを封じ込める。もしくはそのような疑問を気に留めないような類いの人たちなのかもしれない。もう一人、私が「生きる意味」についての探求で助けになった先生は人類学の先生だった。その人は「言語の多義性」の話を教えてくれた。そしてその文化における認識を相対化するような視点を持っている人だった。ここ数年で退官されたらしいが。確かその先生に質問に行った時、ユーモアを交えながらも、私が話している内容から「生きる意味について悩んでいるタイプ」だ、ということがわかってしまったのだろう。その先生は、質問に行って一番初めに、「生きる意味とかの質問はやめてね」と言った。私はミンスキーを読んだ後だったので、「その質問についてはギリギリ大丈夫です。」と言った。それでその先生には当時の私の悩み、科学の「基準」に関する疑問の話をした時に「どのような分野がこのような話を扱っていますか」という質問をしたのだが、「科学哲学」と言って情報を教えてくれた。それは本当にぴったりの領域だった。もしかすると、それほど学問的な体系の広がりを知っている先生でないと、適切なヒントというのは出せないのかもしれない。それは自分もその悩みに悩まされたことがある、そして乗り切ったということを暗に示しているのかもしれない。

それで私は、某教授とのくだらん事件について、ようやく真実が見えてきた。なぜ、某教授は質問にも答えず、それを無視して、自分に私的利用することばかり考えているような人間だったのか。ひいては学部の時のあの不毛な問答、人間関係の数々は一体何だったのか、ということについてである。私はここ数年、もしかすると素晴らしい人に囲まれすぎていて忘れていた。そのような疑問を考えずに適当にごまかして生きていけるタイプの人間はいるのである。某教授が私を騙そうとして「愛」などと語ったのか、それともそれほど慣習埋没的な視野の狭い人間だったかは知らない。おそらく両方である。教えを請うには値しない人間であることは確かである。しかし気をつけたほうがいい、そういう人間は「知らない」ということさえ「知らない」のであるから適当なことを言って無責任に嘘を押し付け続ける。どれだけ真剣に話しても、研究の話は一切無視するためヒントも得られないどころか、「いかに自分に利用するか」もしくは「いかに自分の責任は逃れるか」と責任転嫁ばかり考えているようなタイプの人間なのである。これはもはや驚きと言える。その違いはどこで生まれてしまったのかは知らない。そしてもはや、その思考回路がほとんど理解できなくなってしまったようなのである。

私も過去にはそのような無責任構造に巻き込まれて、無責任的に生きてみたこともあった。しかし、それが変わるきっかけはあったのである。それは上述の人類学の先生との出会いであったり、ミンスキーの本との出会いであった。「言葉が通じる人」との出会い、と言えるのかもしれない。それが某教授にはないのかもしれないし、そういう出会いがあったとしてもあの疑問のように何もなかったかのように通り過ぎるタイプの人間なのかもしれない。よくわからない。

それでAIの話に戻れば、人が嘘をつくときには理由がある、という可能性もある。しかしいくら話してみてもその「理由」が見えない人間というのもいるのかもしれない。責任逃れについては自分の職が危ぶまれるから、ということにして、(人間はわかりあえないとわかっているはずにもかかわらず)愛などということについて語ったのもおそらく欲に狂っただけである。もしくは、それを否定し続けるのであるからアニメの見過ぎで洗脳されているか何かなのだろうか。

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