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アジのたたきの最後のひとかけら。マッチングアプリの相手が教えてくれた、私の大切な愛の形。

3年近く続いた婚外パートナーとお別れして一ヶ月ほどたった頃のこと。
彼のことが頭を離れず、私のメンタルはまさに地の底、ボロボロだった。

そんな時に読んだ、敬愛する宇野千代さまのエッセイ。
宇野千代さまは、明治時代にも関わらず恋愛を謳歌しまくっていた最高にファンキーな女流小説家だ。
正直、よくあの時代にアンチに殺されず100歳近くまで長生きしたと思う。
私は心から敬愛している。

このエッセイでは、「失恋から立ち直るプロ」でもあられる千代さまの、失恋の乗り越え方がこう書かれていた。

そこで私はお化粧して、一番好きな着物を着て街へ出ます。するとついそこの、最初の街角で、新しい恋人に出会うと言う訳です。

「幸福を知る才能」宇野千代

千代さま!千代さま!!そうだよね!!
新しい恋に、出会えばいいだけの話よね!!

……とは言えさすがに最初の街角は難しい。
そこで、私は既婚者専用マッチングサイトに登録することにした。


女性はとにかくめちゃくちゃ「いいね」がくる。
引くほどくる。

「ほらね!前の男を引きずるなんてばかばかしい!
 私、こんなにモテるんだから。」

プロフィールを読んで、文章を吟味し、少しでも頭が悪そうならどんどん切っていく。
私は、知性を感じる男性が好きなのだ。
知性こそ、エロスだと思う。


そして、ちょっとクセのあるプロフィールを書いていたとある男性と意気投合した。
テキストコミュニケーションでいかに深くお互いを知り合えるか。
これも、私にとってはエロスである。
テキストコミュニケーションの深さ、レスポンスの速さ。
「会ってみたい」と思った私の心を読んだようなタイミングでお誘いいただき、とあるオフィス街の居酒屋で待ち合わせをした。

お互いに顔を知らない。
これもエロス。
「写真交換しましょう」とか「芸能人で言うと誰に似てますか?」とか、そういう男には本気で興味がない。
言葉を交わし合って、惹かれあったら、会う。
それだけ。

薄暗い居酒屋で、それでもお互いすぐわかった。
私は顔のタイプとかは別にないが、たぶん、普通にモテる人なのではないだろうか。

「とりあえず、お互い好きなものをいくつか頼みましょう」

男は鯛のカマ焼きとアジのたたき、私は山芋の浅漬けとイカの一夜干し。
お酒は飲めないそうでソフトドリンク、私はレモンサワー。

マッチングアプリのメッセージ機能でいろいろやり取りしていたので、なんとなくお互いのことはわかっている。
なので、そんなに緊張せず自然と話すことができた。
私はアルコールも入って、何となくいい気分。

料理も少しずつ届き始め、ザワザワした居酒屋の空気になじんできた。
お互い少しだけ小さな声で周りを気にしながら、マッチングアプリでこれまでにどんな人に出会ったか、なんていうここだけの話を楽しんだ。


料理も少しずつ運ばれてくる。
なんとなく、お互いが頼んだお皿を自分の前に置いた。
浅漬けをつまみながら、お酒を進める。

「このイカの一夜干し、うまいですね!」
と男が嬉しそうに声を上げた。
柔らかくてジューシー、たしかに、おいしい。
さすが私、おいしいものを選ぶ。
男はバクバクと箸を進める。

そしてふと見ると、男が頼んだカマ焼きはほぼ骨だけの姿となり、アジのたたきは残り数切れになっていた。
私が頼んだ浅漬けはお好きでないようで、ほとんど減らずに小皿の上に鎮座している。

男は楽しそうに自分の大学時代の話をしながら、最後のアジのかけらをお醤油につけてぱくっと口に運んだ。
私はひとくちも食べてない、アジのたたき。

会話は楽しい。
大学時代の話は妙にこなれていて、たぶん、こういう場で毎回話す鉄板の「すべらない話」と思われた。
私はちょっと愛想笑いをしながら、最後のアジのたたきを食べた男の姿を見て突然、別れた彼のことを思い出す。



彼も私もお酒と美味しいものが大好きで、いつも飲みに行くとカウンターでふたりでくっついて座った。
お互い好きなものを何皿か選んで頼んだ。

「これおいしいよ、食べてみな?」
「これ苦手だっけ?ちょーだい」
「最後のいっこ、食べていい?」「いいよ、あなたが食べな」

こんな何気ないやりとり。
自分が頼んだのが美味しかったら、「これ美味しいよ、ほら食べな」って、お互いのお皿に入れてあげてた。


「こんな味付け初めて食べた!」
「菜の花だ、春だねぇ」

とか。
いっしょにご飯を食べることはほんとに大事なコミュニケーションだった。



目の前で消えたアジのたたき。
別にそこまで食べたかったわけじゃない。
でもこの人は、「美味しいものを誰かとシェアする」という幸せを知らないんだ。

いや、私も、それが幸せだなんて気付いてなかった。
あまりに当たり前のこと過ぎて。
そっか、あれは、幸せな愛の形だったんだな。
当時の彼の温かさがいっきに心の中に流れ込んできて、猛烈に寂しくなった。
温かいものが流れてきたのに、心が冷える。
凍え死にそう。
もう帰りたい。

いい感じにカマ焼きのお皿は下げられ、イカの一夜干しも男によりあっという間に完食された。

「そろそろ帰らないと……」
まだ引き止めたそうな男にお礼を言って、私はそそくさと店を後にした。

あーあ、やっぱり彼が恋しいな。
しばらくはやっぱり彼のことを思いそうだ。

今私と会った男は、もれなく前の彼と比較されてしまう。
なんて不毛なんだ。
彼を忘れるためのマッチングアプリが、彼から受け取った幸せや愛のカタチを再定義する場になっている。

今さら愛のカタチが見えたって、
そこに合った人と出会えるわけじゃないのに。
今までの感情を取り出して、少しずつ冷凍庫にしまっていく、そんな感覚。
いちど凍らせたら、もう二度と戻らない、触れることもない。

私はもう少しだけ、既婚者向けマッチングサイトを続けると思う。
でもたぶん、相手は見つからない。
それでも、なくした愛の輪郭が見えてきたことで、少しずつ、触れること癒すことができるようになる気がする。



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