見出し画像

絶望と暮らす

 2019年2月14日に呼吸と鼓動を止めた二男・真一。

 2012年7月に悪性脳腫瘍が見つかり、7年間の闘病生活を送りましたが、苦しかったのはその半分くらいで、それ以外の時間は溌剌とやりたいことをやって過ごしたと思います。

 何度も手術をして入院生活を送り、リハビリをして日常に戻る、という繰り返し。
 その中で二男は、リハビリテーションセンターの先生に憧れ、尊敬し、「理学療法士になって恩返しをしたい」と考えるようになりました。

 都立荻窪高校卒業後、無事に多摩リハビリテーション学院に入学。
 先生方も「脳腫瘍経験者が理学療法士になる意味はとても大きい」と応援してくださいました。

 しかし、夏前にはノートが取れないほどの状態に。
 二男は「ノートの文字がミミズみたいだ、って教師に叱られた」と悔し泣きをしながら僕に語りました。
 その教員は二男が脳腫瘍の末期であることをご存じなかった、とのことです。

 入学はしたものの、直後の7月で休学。
 そして翌年2月に亡くなりました。

 それから5年、理学療法士はとてもじゃありませんが無理でしたが、僕は「認知症介護基礎研修」を修了し、演劇講師は続けながらも、二男が目指した「誰かのために直接お役に立てる仕事」を続けることになりました。

 2011年の東日本大震災をきっかけに運営していた劇団の観客動員が激減したため巨額の借金をし、それを返し続けるために2014年から劇団員全員無給で頑張り続け、ついに力尽きたのが2019年5月。

 そして、破産。

 破産するまでの5年間と、二男を喪った上にさらに会社が破産してからの5年間、どっちが辛かったか、と問われれば文句なく前者です。

 今、5ヶ所の勤務先に通い、月のお休みが数日だけ、というほぼフリーター暮らしではありますが、全て未来に繋がる仕事をし、お給料をいただけているわけですから辛いなんてことは全くありません。

 東日本大震災の直後、東北の皆さんに元気や勇気をお届けしたい、と行った東北応援無料ツアーのことは、生涯忘れられない思い出です。ただ、あれを行ったことが経営的には大きな圧迫になったことも間違いありません。

 本来、「いいことをする」ことが、自分達の首を絞めてしまってはいけないのです。

 2011年3月11日14時46分に起きたあの地震は、間違いなく大きな運命の分岐点でありました。しかし、今思えばあの日からの地獄の8年間が、今の僕を支えてくれているのだと思います。

 どん底には底が無い。
 やまない雨はある。
 明けない夜はある。
 信じるものも救われない。
 夢は必ずしも叶わない。
 努力がまったく報われず逆効果になり続けることがある。
 
 あの震災以来、こんな絶望を抱えたまま13年間生き続けてきた人がきっとたくさんいらっしゃると思っています。今も、能登半島で絶望と暮らしている方がいらっしゃることでしょう。

 絶望した者には、絶対に励ましの言葉は投げかけないでください。
 もう頑張れないのですから。
 ただ泥人形のように生き、泥の中からなんらかの希望の種子が誕生するのを待つしかないのです。

 僕はなんとか這いずり回って今がありますが、それは娘がいたからです。そして亡くなった息子が僕に仕事をさせてくるからです。

 そのため、今は希望に満ちた仕事ばかりをさせていただいています。 
 運が良かったのだと思います。「運は自分が引き寄せる」などと電車の書籍広告に書かれていますが、そんな大層なことをしているつもりはありません。

 ただ、生きてきただけです。
 死ななかっただけです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?