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不自由な現代の自由とは?

大学の授業中に鍋をする「自由」を認める教授がいて、実際に鍋をした学生が現れたことが話題に上がっている。


「人に迷惑をかけなければ、何をやってもいい。例えば鍋とかでも」

前提条件の付け方に教授の考えの妙があるように感じる。

高校生活までは、学校の校則など様々なルールに縛られて生きている。大学生活においても、もちろん守るべきルールは様々に存在する。
しかし、何をどのように学ぶか、どのように時間を使うかなど、大きな自由がある。


一方で、自由だからといって何をやってもいいわけではない。
そこには暗黙の了解や、慣習的なもの、常識、良識などなど自分と他人との間に目に見えない境界線があり、たゆたうようなそれを辿りながら探りながら生きていくのである。


「人の迷惑にならなければ」というのは、とても難しい。
そもそも他人がどのようなことを迷惑と感じるのかを知るところから始めなければならない。自分にとって当たり前のことや何ら問題ないと考えていることであっても、他の誰かにとっては不快極まりないということもある。

そして、その線引きは必ずしも言語化されているわけではないし、自己紹介で説明されるものではない。

つまり、他人が何に対して迷惑と感じるかを知るためには、相手との関係構築が必要であり、そのためのコミュニケーション能力が必要であり、自分が実現しようとしていることを具体的に定義する力も必要となるわけで、これはけっこう高度なソーシャルスキルなのである。


「鍋をやってもいいよ」と言われたとて、本当に鍋をやる人は中々いない。
多くの人は単純にめんどうだと思うのかもしれないし、わざわざ授業中に鍋をする必要性を感じないのかもしれないし、悪目立ちしたくないと考えるのかもしれない。

それでも、今回実際に鍋をする生徒が現れ、さらに他の生徒からクレームがあがっているわけでもないというのは、実はけっこうしっかりとした下準備がなされていたのかもしれない。


あー、お鍋食べたくなってきたな。


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