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もう自分でなにか始めるしかないんじゃないかと思い始めた30歳 - リアル脱出ゲームに至る道

2001年。28歳ニート生活の中で未来が見えず、どこにもたどり着こうともしないまま怠惰な日々を送っていた僕は、毎晩書いているブログがそれなりにリアクションがあったので、「文章を書くことを仕事にしよう!」と短絡的に思いついた。

この頃の気持ちとしてはミュージシャンとして生きていく未来を望んでいた気持ちはもちろんあったんだけど、もう社会人として生きていく自分は諦めていたので、とにかく「何かを作りながら生き延びる方法はないか?」ってことを考えていた気がする。
音楽で生計を立てるのは難しいかもしれないし、雲をつかむような話でよくわからなかったけど、文章で生活していくのはその時の僕には比較的現実的に見えていた。

友人のミュージシャンにそんな話をしてみたら、知り合いの編集プロダクション社長のTさんを紹介してくれた。
人当たりのいい感じのいい人で、声がよくてすごく太っていた。
雑誌を作ったり、アートイベントを作ったり、webページを作ったりといろんなことをやっていて、僕のブログも読んで褒めてくれた。
「君みたいな文章を書く人は情報誌で書いてはいけません。ここでは個性は必要ない。マシーンが必要なだけです。たくさん仕事をしても信頼が増えるわけではありません。そんなことは出来て当たり前だからです。そんな文章を書いて喜んじゃいけない。あなたはここでは書かないほうがいい。もっと別の所で書きなさい」
みたいなことを言われてなるほどそれはたしかにそうなのかもしれない、などと思った。
会議の終わりに「まあなにか仕事があったら連絡するよ」と言われて、
ああ、こりゃ体よく断られたなと思っていたら翌日連絡が来て、いきなり仕事が決まった。

京都を紹介するページで毎日500文字程度にまとめた「今日、京都で起こっていること」というコラムを2本書く。毎日。毎日。2本のコラムを500文字。
社寺仏閣に問い合わせて、祭事を取材して写真を撮ってその日のうちに記事にする。
毎日二本。500文字。
小さな個展を取材したり、学校の行事を取材したり、京都の季節の移り変わりを示すような鴨川の彩りの変化、銀杏並木の色づき、有名料理店のメニューが季節によって変わること、大文字山の平時、街を歩く人たちの服装の変化、街に新しくできたお店、ビル、そして消えていく町家、その所有者たちの声。そんなものを毎日二本取材して写真に撮ってアップし続けた。500文字。
ほぼ休むことはなかった。もしライブなどでどうしても休まなくてはならなかったとしても、事前に取材できるものを溜めておいて、小出しにしてアップした。
その記事が評判になったかどうかは知らなかった。
オーナーは京都専門の情報誌でそこが時代の波に押し出されてweb事業に乗り出す先鞭のようなものだったので、特にすぐさま結果を求められたりはしなかった。
半年くらい続けたときに、自分の文章力がかなり上がっていることに気づいた。
短い文章でその場の空気を表現することができるようになっていたし、自分の意識をどこにおいて文章を書けばよいのかがはっきりとわかるようになっていた。
最初に「情報誌で書くってのはマシーンが必要なだけだ」と言われたけれど、きちんとマシーンとして書くことができれば、そしてそれをきちんと続けることが出来れば、血の通った筋肉になるのだと学んだ。
やはりどんな内容であっても、書けば書くほど成長する。
作れば作るほど作れるように。
作り続けられるかどうかだけが才能だ。
僕は自分にとってこの仕事が向いていることを確信していた。

結局1年くらいそれを続けた。
確か2本書いて一日6000円くらいもらってた!
取材時間を含めても仕事時間は一日3時間もかからなかったから、かなり良いバイトだった。
生活は安定したし、自信もついた。自分が社会と楽しんでつながれるということも知った。
それはとても幸せな気分だった。初めて安定的な何かを手に入れたように思った。
でも一方でそんな生活をいつまでもできるわけではないこともわかっていた。

500文字のコラムを毎日二本書いて粛々と働く僕を見て、その編プロの社長が「うちの社員にならんか?」と言ってきた。
新しいフリーペーパーを作る予定だからそのライター兼編集が欲しいと。
ちょうどリクルートでの仕事にも疲れていたし(あと飲食店への営業っていう仕事が完全に向いてなかったし)コラムの仕事をくれた恩義もあったので「いいですよー」なんつって軽々しく入社した。といっても彼ともう一人事務員さんがいるだけの編プロだったので僕を入れて三人だけの会社だった。
その頃はフリーペーパーを作るという企画が二つ動いていたり、その会社を金持ちの社長さんに買ってもらうみたいな話が動いているようで華やかだった。
僕はなぜかフリーペーパーという物への強いあこがれを持っていて、そこには僕の望む「自由な表現」とか「なんとなくかっこいいものを具現化する」みたいなものが詰まっているように思えた。京都のちょっとしたカフェに行けば数多のフリーペーパーが所狭しと並べられていて、学生が作ったものや個人が作ったものや企業が作ったものが平等に並べられていて、とても平等な戦いに見えたし、街にぽつりと置かれている情報によって、何かが変わっていくのならそんなかっこいいすばらしいことはない、と思っていた。
そんなわけで、フリーペーパーが作れる編プロに入るってのは当時の僕にとっては渡りに船みたいないい話だったのです。

編プロの社長のTさんはデザイナーとしてもいろんな仕事をしてたり、BARもやってたり、イベントの制作もやってたり、夜はいろんなところでしこたま飲んでた。
プロデューサー然とした態度でいろんな人を巻き込みながら物を作って、実際にいろんな人が集まってきていた。
彼の周りには特にいろんなクリエイターが集まっていて、建築設計士やデザイナーやイラストレーターなんかがいた。とくになにかすごいカリスマがあったわけではないのだけど、温和な人当たりでなんとなく人を不愉快にさせず、よい場所に立っていたので、なんとなく人が集まってきて、なんとなくそれでビジネスが成り立っているような感じ。
ちょうどそのころロボピッチャーというバンドを作った僕に「レコーディング代出すからちゃんと録音しろよ」と言ってくれたり、僕をいろんなところに連れ出していろんな人を紹介してくれた。その時に知り合ったデザイナーは今でもリアル脱出ゲームのデザインをしてもらったりしているので、この時の出会いは相当価値があった。
僕は彼のことを好きになったし、信用できる気がしていた。

しかし、入社してしばらくするとなんとなく雰囲気がおかしくなってくる。
ある日朝から彼はものすごく機嫌が悪くてイライラしながら独り言を言っていた。
ぶつぶつぶつ。
その日の午後電話がかかってきたのだけど「その電話には出なくていい!」とやたらと大きな声で指示してきた。
なんのことかよくわからなかったのだけど、まあ彼が言うならそっとしておくかと思って電話は鳴ったまま放置された。
その後僕はちょっと外出して帰ってきたら彼が電話に出てこう答えていた。
「今ちょっと社長がいないんでわかんないんですよ」
僕の頭の中にはたくさんのハテナマークが並んだ。
そしてこりゃちょっとやばい事務所に来ちゃったのかもしれないなと思った。
これはなんかいろいろと後ろ暗いところがありそうだぞと思いつつ、
しばらくするといろんなところから毎日借金取りたてる電話がかかってきた。
彼はそれに対して「払えないものは払えない」とか「じゃあどうすりゃいいんですか」とか漫画やドラマでみたような対応を繰り返していた。

しばらくするとT社長は、何かがうまくいかないとその失敗をすべて人のせいにしはじめた。
責任を取らず、人のせいにばかりして、口答えすると罵倒された。
自分には甘く、まわりにはきつい人で、山ほどたくさんのものを抱えて独りよがりにぐるぐると回しながら、そのうちのどれかがうまくいかないと全部僕のせいにした。
もちろん僕も未熟で出来ないことがたくさんあったから彼がイライラする気持ちもわからなくはない。なんとなく自分でいろいろとできるような気にはなっていたけれど、考えてみれば大学卒業後ふらふらとほぼなにもしてこなかったニート野郎だ。
プライドだけ高く、自分のことをアーティストだと思っている使いにくい男だった。
彼がイライラする気持ちもわかる。
まあとはいえ、その事務所で起こるさまざまな不幸なことが全部僕のせいにされているような気がして、僕の心も少しずつ彼から離れていった。

僕の給料も払われたり払われなかったりだった。
事務員さんも辞めてしまって僕と二人だけになったけれど、僕はその編プロを辞めようと思っていなかった。
フリーペーパーを作れるという話はまだ生きていたし、僕はそのための企画書をいくつか書いて、クライアントとも直接やり取りしていたので、その企画自体は前向きに進んでいたからだ。
しばらくすると例の「大金持ちの社長」みたいなのから出資を受けるみたいな話も立ち消えて、さらに状況は悪化していった。
ちなみにその出資の話が立ち消えたのもなぜか僕のせいにされた。「君がちゃんとしたビジネスプランを出せなかったからだ」と言われたが、僕はその人との会議に出たこともなければ、ビジネスプランを出さなくちゃいけないことすら知らなかったのでさすがに心の中で笑ったが、彼は結構落ち込んでたようだし、怒ってたし、正論を言ってめんどくさいことになっても嫌だったので神妙な顔をして聞いてた。

僕はいくつかのクライアントとやり取りしながらフリーペーパー発行の段取りを組んで、なんとか二冊とも世の中に出せるようになった。
もちろん彼が連れてきたクライアントが主軸だったので、このフリーペーパーが出せたのは僕だけのおかげではない。
これはT社長の人脈のおかげで出たフリーペーパーだった。

その時作っていたフリーペーパーは編集長は彼、僕は企画担当という立ち位置だった。
僕は企画書を書いて彼に提出し、承認されたら取材し記事を書き、それを他社のデザイナーさんに投げて形にしてもらった。
彼とは企画を進めながら揉めたりもしたけれど、まあそれはなんかそんなに気にならなくなっていた。
彼の機嫌も適度に取りつつ、自分のやりたい企画をやるという塩梅もゲームみたいで楽しくなっていた。
時々大きな声で恫喝されたりするとびっくりするからいやだったけれど、きっかけをくれたのはこの人だし、そもそも彼のおかげで成り立ったフリーペーパーではあったので、可能な限り彼と進めようと思っていた。

半年ほどすると彼は彼で何らかのプロジェクトを進めだして忙しくなり、このフリーペーパーに関しては企画もクライアントとのやり取りも取材先とのやり取りもデザイナーとのやり取りも僕がほぼやることになった。
最終的にT社長の仕事は最初の企画のチェックと、最後の校閲だけになった。
彼は最後にやってきて僕のミスを見つけるたびに「加藤君さあ。こんなことをやってたら雑誌を作る資格ないよ」とか言ってた。
確かにクエスチョンマークを半角にするか全角にするかは雑誌にとって大切なことだし、それを統一するのは当然のことではあるけれど、だからと言って「雑誌を作る資格」にまで影響するかどうかはいまでもよくわからない。

まあそんな風に僕はフリーペーパーのつくり方を少しずつ覚えていったし、印刷会社の時とは違う社会の在り方みたいなものを学んでいった。
なによりおもしろかったのは、表紙のぱっと見の雰囲気と、そこに乗っている言葉で世の中のリアクションが全然違ったことだった。ぱっと見でおもしろそうな時にはすごくいろんなところから連絡が来たけれど、ちょっとでももっさりしているとまったくどこからも連絡はなかった。
一瞬で目に入る情報でこんなに世の中のリアクションが違うんだと知った。
中身がどんなに立派でも手に取ってもらえないフリーペーパーに意味はない。
表紙をいかに興味深くするか。
そのための企画に僕はこの頃からどんどん夢中になっていく。

このころ作っていたフリーペーパーは不動産会社が主なクライアントのやつと、CDショップが主なクライアントのやつだった。
不動産主導の方はとにかく広告をとりまくって少しでも稼ぐぜ!
だから少しでも広告の入りやすい企画を作ってくれ!と言われていた。
それはそれで楽しい編集だった。どんな企画ならお金が入ってきて、どんな企画なら入ってこないのかを肌で感じることができた。
CDショップ主導のほうは、もう少し文化的というかなんとなくかっこいいことやってブランド力を上げてくださいよ、みたいなやつだった。
今では信じられないかもしれないが、かっこいいフリーペーパーを出していると、かっこいい会社と思われる時代があったのです。
そんなわけで、僕は結構自由に「音楽とマンガの関係性」とか「ガーリーが京都を救う」とかなんかわかるようでわかんない企画をつらつらと作っていた。

この二つのフリーペーパーは一年くらい続いてから廃刊になった。
理由は広告効果がないから!
そりゃそうだろ。俺が作ってるんだから。
読んでるのは金のない若者ばかりで、高い店にも高い服にも興味のない文化系弱者のためのフリーペーパーを作ってたんだから、こんな雑誌に広告載せても効果がでるはずなんてない。
偉そうに言うことじゃないんだけど、まあそういうことだった。
僕は突然仕事がなくなって、この会社にいる必要がなくなった。
辞めますと伝えたときにT社長は「わかった」と重々しくうなずいたけど、
「ところで未払いの100万円についてなんですが」という問いかけには応えなかった。
毎月催促はしたけれど、一貫してそれは払われなかった。
未だに払ってもらっていない。

その後T社長はある大きな新聞社の別刷り広告の仕事を任されたとか、いろいろと噂は聞いたけれど、顔を合わせたことはない。
名前で検索しても出てこない。
どこかで元気に暮らしているといいけれど。
もしこれを読んでいたら連絡ください!
もう「お金返せ!」とか言わないので!

長々とこのT社長について書いているのは、当時の気持ちを思い出してなんとなく恨みで長くなっているというのもあるが、実はこの人は僕に大きな影響を与えている。
というのも「こんな人でも社長を名乗れるし、自分の力でいろんな企画(雑誌やイベントやその他いろんなこと)を実現できるんだってことに結構深く感動していたからだ。

彼のすごいところは、ちゃんと行動して人に会いに行くところだった。
一目見て覚えられるキャッチーなビジュアル(いい感じで太っていた)を持っていて、人当たりが良くて、話したことをちゃんと実現しようとしていた。
もちろん実現しないことも多かったけれど、それでもちゃんと動かそうとしているのは伝わって生きた。
それだけで一つの会社が成り立っているってことに僕はものすごい希望をみた。
その他の実務能力は皆無といえたし、とりわけ金銭に関する嗅覚は内外ともにまったくなかったけれど、一応京都の町に小さな花火みたいなものを打ち上げていた。
だったら俺も自分の力で企画を考えてそれでお金を稼ぐことってできるんじゃないかなと思わせてくれた。
実際彼の用意してくれたフリーペーパーではきちんと企画して記事を書き、それが評価された結果ささやかだけど広告も入ってきている。
配布も僕がやっていたので、流通のやり方もわかる(僕が自分の家の車で京都中をコツコツと回るだけなんだけどね)。
京都の町に根付いたページの取材や、フリーペーパーの編集を二年間ほど続けたので、街とのつながりもかなりできていた。
だったらもう自分一人でやってもいいんじゃないのか?という思いがふつふつと心の中に湧き上がってきていた。

そんな風に僕は「自分でやる」ってことを少しずつ覚え始めていく。
リアル脱出ゲームを思いつく3年前くらいの出来事。
SCRAPを株式会社にする4年前。
社会に所属する能力がないなら、自分でやっていけばいいのかーなどということに気づき始めた2003年の出来事。
僕は30歳になってた。

ちなみにこの編集プロダクションにいた同じ時期に僕は「ボロフェスタ」というイベントを立ち上げ、「ロボピッチャー」というバンドも作っている。
そのあたりの話はきっと次からはじまるんだと思うよ。


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