見出し画像

せっかくグルメに出演した松田さんを見てQOL爆上がり

信じるレッスン

一人の男が美術館の一室で足を止めている。開館時間から閉館時間まで、常識的な範囲の滞在時間を大きく超えて。男はただ一つの作品のまえで一日中釘付けの状態になり、残りの会期の間、どれほどの時間をこの作品の前で過ごすことができるか考えている。ダグラス・ゴードンの『24時間サイコ』はアルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』を減速させ、上映時間を24時間に引き延ばした作品。世界で一番有名な映画の殺人といって過言でないシャワーシーンが、ここではその説話論的な役割を剥ぎ取られて、鑑賞者は自ずと等速では見過ごされる細部に視線を預けることとなる。

彼はこうしたことに魅了された。運動を遅くすることで生まれる深さに、見るべき物事に、習慣となった浅い見方ではすぐに取り逃がしてしまう物事の深さに。 

ドン・デリーロ『ポイント・オメガ』

以上はドン・デリーロによる小説、『ポイント・オメガ』の一場面の要約である。ここで冒頭の匿名の男は、シャワーのカーテンリングがいくつ画面におさめられているかを注視しはじめ、その鑑賞に詩的な体験を得る。つまり、減速の美学。この美学は例えば、映画館における時間に縛り続けられた鑑賞を相対化する契機となるだろう。スクリーンの光が私たちを暗闇の中で照らし出すあの特別な時間についての感傷的な文章(及び表現)は、映画の生誕以来、数えきれない実作者、映画ファン、シネフィルによって膨大に書き綴られ、表象されてきた。その価値を一方的に否定するわけではない。しかし、他方youtubeでは再生速度を変更する設定がデフォルトで整備され、TikTokなどのショートビデオプラットフォームがインフラ化した情報環境において、私たちのスクリーンを敬虔に見つめることがもたらす光の体験は、映画館という特権的な場所だけに押し込められるべきではない。いまの私たちが真に渇望し、かつ不足しているのは、ソファーベッドに寝そべりながら、等速に囚われず、一瞬の輝きを掴み損ねないことを動機とした、動画内時間の自由操作の技法であり、それにより得られる特別な感慨についての感傷的な文章だろう。

0.5倍速で再生して見つけ出したので普通の速度だと分からなかったりする部分もあるかもしれないですが!

0.25倍速で探したものなので普通に再生しても多分私が挙げた所は見つけられないと思うので、探すときは0.25倍速をオススメします!!

松田好花

日向坂2ndシングル「ドレミソラシド」から5thシングル「君しか勝たん」のカップリング曲「声の足跡」まで継続されていた松田好花によるMV自己解説はまさにドン・デリーロが『ポイント・オメガ』で描く減速の美学の実践として記録されるべきだろう。(ただし『ポイント・オメガ』では減速主義が一方的に賞賛されているわけではなく、その反面のいかがわしさもまた描かれている。矢倉喬士「残像に目移りを──ドン・デリーロ『ポイント・オメガ』におけるスローモーションの技法」参照)。この、このちゃんの実践によって新たに発見される物事の深さとは、メンバーの美しい髪の広がりであったり、綺麗な指先であったり、はたまたMVの説話論的役割から外れた、場にそぐわぬやや滑稽な表情であったりする。以降の文章における結論を先取りすると、自分はここに礼拝的価値に基づくアウラのひらめきをみる。どういうことか、まずどのような条件がこの鑑賞を可能にさせているのか、推測を交えつつ確認したい。

苦しい時も楽しい時もずっと乃木坂46さんと一緒で私の青春の全てと言いきれるくらい乃木坂46さんは特別な存在でした。

潮紗理菜

日向坂メンバーの一部に共有される特徴(あるいは現代アイドルの多くにみられる特徴)は、自身がアイドルになる以前から、一人のオタクとしてアイドルに視線を注ぎ続け、その経験に大なり小なり救われてきた過去を持つことである。松田好花がかつてのひらがなけやき2期生オーディションの配信審査において、当時の推しである1期生高本彩花に認知されたことを観客のコメントから知り、審査中に涙を流したエピソードは広く知られている。ゆえに松田の減速鑑賞にはアイドルオタクとしての普遍的な視線が内面化されていると考えられる。つまり、現役の日向坂メンバーでありながら、随一の日向坂オタクであること。強く信仰する対象への目線こそが物事の深さを捉える。

遠く別れてくらしている愛するひとびとや、いまは亡いひとびとへの思い出のなかに、写真の礼拝的価値は最後の避難所を見いだしたのである。古い写真にとらえられている人間の顔のつかのまの表情のなかには、アウラの最後のはたらきがある。これこそ、あの哀愁にみちたなにものにも代えがたい美しさの実体なのだ。 

ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』

複製技術の進歩によって芸術はその価値を礼拝的価値から展示的価値に大きく譲り渡すこととなった。ベンヤミンは「いま」「ここに」ある/いるという一回性と結びついた失われしアウラの最後の避難所として空間的/時間的遠近法に基づいた人間の顔を設定する。つまり、人間の顔(写真)には条件付きでアウラが宿りうる。礼拝的価値とはその言葉が表す通り、信念と切り離すことの難しい価値観だろう。偶像崇拝。そこでは多かれ少なかれ宗教的な確信が価値の決定に影響を及ぼしている。

松田好花が単独で出演した2022年1月30日の「バナナマンのせっかくグルメ!!」放送後翌日の昼間、自身のカメラロールのスクリーンショットと思しき写真を共有するツイートを見た。そのカメラロールの大半を一面の松田好花──テレビのアクションをバラバラに断ち切り生成された「キャプ画」が埋め尽くしていた。たてた人差し指を口元にあてる松田好花、大きく口をあけて笑う松田好花、驚きとともに口元を手のひらでおさえる松田好花、顔を若干上向けて羨望の表情を画面に向ける松田好花、大袈裟な身振りで選択によりもたらされた迷いを強調する松田好花‥。いうまでもない松田好花推しのオタクによる、このツイートにこめられた信仰の強度、そして物事の深さに達する視線。実感として、アイドルの「キャプ画」にアウラは宿りうる。

偶像崇拝の対象としてアイドルの画像にはアウラが宿りうるのか、反対にアウラの宿ったアイドルの画像を目撃してはじめて、偶像崇拝の対象と化すのか。鶏が先か、卵が先かの問いに生産的な答えを出すのは難しい。信じることを習慣としない環境に身を置く人間が多数である構造を思うと尚更のことだ。しかし、ひとつ言えることがある。あなたが信じようとするものをみつめるとき、浅さを誘う一定の速度に束縛されたアクションを無化する減速の美学は、信仰を強化する機会を持つ。信じることを知らない私たちが、信じることを知るためのレッスン。一瞬ごとに移り変わる「いま」「ここの」アイドルを、あらゆる手段をもって見逃してはならない。敬虔な視線を保ち続けた者の前に啓示的図像は突如姿を現し、あなたを宗教的確信が撃つ。

気付いてしまったんです。
詳しくは言えないですけれども、気付いてしまったんですね。

宮田愛萌

余談、オタクはなぜアクスタを買うのか

実力不足で触れられなかったが、松田さんの引用したブログ(及び一連のMV考察ブログシリーズ)は減速の美学だけにとどまらず、タイトルの通り加速の美学までその射程を広げることが可能な視座を含んでおり、ファンダムの内だけで閲覧されるのはあまりに惜しい内容だと思う。本文は正直どうでもいいので松田さんのブログだけでももっと沢山のひとに読まれてほしい。小説の新人賞の下読みをしている人のツイートをみて知ったことだが、面白い原稿の大半はそのはじめのページに付される作者による概略からして頭一つ抜けているという。創作に詰まった人は面白いファストシネマを作りまくると多分効きます。

デヴィッド・フィンチャー『ファイト・クラブ』

「キャプ画」の話だと、そもそもカメラロールを埋め尽くす「収集」欲自体が極めてオタク的。最近までオタグッズの代表格といっていいアクリルスタンドを「収集」する人の欲望がよく分からなかった。かさばって場所をとる印象があるし、その平面としても立体としても中途半端なあり方!お金をかけたくないならポスターとかでよくない?お金をかけたいならフィギュアを買えばいいのでは?で、この頃ようやく分かったのは、アクスタは比較的安価で「かさばる」からこそ欲望を刺激するのだということ。部屋のブランクスペースを信じる対象でお手軽にむしろ埋められるからいい(スマホのストレージも圧迫すればするだけいい)。最たる私的空間を埋め尽くす行為そのものを通過して、信仰の強度がでる。ミニマリストへの普遍的な反感は信じる物を持たない強者への羨望と恐れに由来し、タイラー・ダーデンの自室爆破はいつまでもアクチュアル。