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信念の行動か、わがままか

長編歴史小説、楽毅(二)〜(三)を読んでいます。

楽毅は我が母国である中山(ちゅうざん)が趙に攻め込まれ、国の滅亡の危機にさらされます。しかし壮絶な戦闘でも、策を練り、たくみに死地を切り抜けてゆく様は息を飲みます。

しかし、一方楽毅は決して王命に盲目的になることはありません。攻められた側である自国を冷静に分析します。

大国である趙はたしかに横暴です。一方、小国である中山が一方的に被害者かというとそうではない事情があり、攻め込まれないように、あるいは攻め込まれても支援をもとめられるように、他国と外交的な信頼関係をつくっていませんでした。むしろ、中山の王は、歴史的に他国の領土を掠め取り、一方的に王を名乗った経緯があるくらいです。結局どちらサイドにも狡猾さや横暴さ、信義にもとる姿勢が想像されます。この様子に楽毅は次第にこころがはなれていきます。

このあたり、個人レベルであろうが、国レベルであろうが同じことだと感じます。以前、楽毅はその高潔な徳によって死地を切り抜けてきました。奢ることなく真摯に課題にむきあうことで苦難を乗り越えているのです。信念をもって行動しています。

それに比較して、楽毅の主君である中山の王は他者から助けを得られず、そもそも得ようともせず国難を招きます。同じく自分の思いをつらぬいているものの、それは単にわがままな行動です。

あらためて思うのは、その行動の根本に何があるか、大義があるか、徳に基づいているか、他者への共感があるか。このような、なぜそのようなことをするのかについての深い考察があるかないかが、信念の行動かわがまま・横暴になるのかのちがいとなって現れることがわかります。

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