曖昧なガールフレンドがいた話

魔法にかけられたような7ヶ月が呆気なく通り過ぎて行く。
とても長く短い、そして険しかった道程を歩き切って気付くのはそれが恋だったということ。

閉鎖的な高齢者と馬鹿な大学生しかいないあの町から出て名古屋へとやってきた。
思いのほか寒さが厳しかった冬に僕らは出会い、その溢れる爛漫な笑顔から見える矯正器具は繊細に輝く。
透明な笑い声は僕の体を突き抜けて、珍しく降った雪のなかへと消えてしまった。
初めて二人で行った居酒屋。その日から彼女の分のお水を頼む時は氷無し。今でもそのようにお水を頼むと莞爾する彼女。
寒空の下で僕だけはまるで春の中にいるような心地がしていた。

家近くの歩道橋にかかる梢が少しずつ目を覚まし始めた頃、僕らは京都へ赴いた。
名古屋駅へ現れた彼女の顔には細やかな化粧が施されていた。優しい春色の紅。
古都に穏やかな日和。歴史ある寺を周り、かつての蝦夷の英雄が眠る墓を参った。

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池には微動だにしない亀がいた。こいつはいままでにどれだけの観光客をその厭うような目で見てきたのだろう。見透かされている様な気がした。
夜には煌々と光る京都タワーを駅の展望台から望み、そして彼女に告白をした。してはいけないと分かりつつも、あたらしい関係を望んでしまった。
彼女はその関係を断り、僕は打ちひしがれた。夜が顔色を変えた様な気がした。

しかしお互いに、わざわざ離れる必要もない事はわかっていたから変に気を遣う雰囲気にもならず、今までと変わらない関係がこれからもずっと続くはずだった。

それから1週間が経ったある日、ある事件が起きて僕らは言葉を交わさなくなった。その間に我関せずと桜が咲いて歩道橋は賑やかになり、雀達は煽るようにくるくると踊り続けた。

目を合わせることもないままいたずらに時間は過ぎて行き、春の光を存分にその花弁に孕み、より大袈裟になる桜。彼女より4つも歳上でありながらこんな関係を続けていて恥ずかしくなった僕は声をかけるよう努めた。
少しずつ、ほんの少しずつではあったが会話が生まれはじめ、僕は彼女への不信感と好意の狭間でやきもきしていた。桜はいつも通り早々と散っていった。

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青葉が目に優しい5月、彼女が僕の家へギターを習いに来た。
ベッドの縁に座り、その華奢な左手を見ながら悪戦苦闘する彼女。開け放った窓からは光る風が彼女の髪を揺らし僕の頬を打つ。
陽は落ち月が上った。ベッドの中で足を絡ませた僕らは何もないままに時間を過ごし、彼女は電車に乗って帰っていった。
部屋に残された余韻がつむじから足先に至るまでまとわりつき、よそよそしさを感じながら眠りについた。

僕らは石川県へと職場を変えざるを得なくなった。しかし彼女は少し躊躇して返事を保留にしていたこともあり、異なる入社日となった。
新たな職場では会う機会が激減する事も考えられたため、僕らの間にはわずかにお別れの雰囲気が出ていた。
僕が石川県へ向かう前にも彼女は家を訪ねてきて、青椒肉絲を振る舞ってあげた。食事が終わってから僕らは抱き合った。
彼女の体温や匂い、息遣いまでも感じられるような中で最後になるかもしれないこの逢瀬を餌に群がる鳩のように余すところなく吸収しようとした。

28歳になった月、長い長い梅雨の最中にやってきた新たな職場でも彼女と同じ班になり、これまで同様に顔を合わせることになった。
以前よりお互いの家が近くなり、歩いて行ける距離に住み始めた。仕事終わりや休みの日にはよく僕の家にあがり、一緒に食事をした。
そのあとでベッドに入る事もあった。
二人の境界線はより曖昧になって行ったが、それでも僕らの間には柔らかいながらも確実な距離感が存在した。二人ともややこしい性格をしているから尚更に、片方が歩み寄ると片方は離れて行った。
一番僕らが近づいた日に彼女は僕の耳を噛み、僕は彼女に口づけをした。
僕の細い左腕に頭を乗せて、幽かに寝息をたてる彼女の顔は暗闇の中で見えなかった。曇り硝子の窓に単調な街頭の光が映り、部屋には古いジャズが流れていた。愛しさで壊れてしまいそうだった。

僕はまたあの寂れた町へ帰ることにした。生まれて、育った町。見慣れた、退屈な町。
ハッピー・エンディングというのは存在しない。もしハッピーであれば、終わりという感覚にはならないからだ。エンディングを迎える時は淋しさや悲しさが伴う。

くどいほどの雨が上がり今度は蝉達が一斉に時雨を降らせ始めた8月。
僕らの間にいつも存在し、枷となっていた距離感は暑さに溶けいるバニラアイスの様に柔らかさを増していた。
聴く音楽や食べる物が全く違う僕らがこうして一緒にいたのは、淋しさからだったと思う。刹那的な逃げ場を求めていたに過ぎない。
守られたかったし、守りたかった。笑いたかったし、笑ってほしかった。
彼女はこの暑さに観念し長い髪を切って、僕好みのショートヘアーになった。自分の顔の形が嫌いだから短くはしないと言っていたが、彼女の輪郭は2Bの鉛筆で描かれたように優しく、露わになった耳はなによりも柔らかかったことを僕は覚えている。
僕らの関係を他の誰かに言葉で表してもらい、その限定された感覚の上に胡座をかいて甘えていたかった。

彼女は赤いスポーツカーで僕を迎えに来た。シフトノブをローギアに入れる際の滑らかな動きは窓の外に映る陽炎をも揺らした。
海を見た。些か広すぎる海。青すぎる海。触れたら壊れてしまいそうな彼女の華奢な肩越しに見た誇張された海は嘘っぽく見えた。海から見た僕らと同様に。陽射しは僕のTシャツを湿らせ、潮風はそれを乾かそうとする。
烏賊料理を出すレストランで彼女の時計は12:55を指したまま止まった。しかし食事は運ばれて来てそれを食べたし、少しずつ太陽は水平線へと近づいていった。こうして着々と彼女との別れの時間は具体的な姿を表してきた。
僕が運転をした帰り道、いつも通りの無防備な寝顔を彼女は僕に見せてくれた。何度見たか分からないそれを僕はいつまでも飽く事なく見ていることが出来た。

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またしても彼女は僕の家にあがり食事をした。疲労のために重そうな瞼の中にある焦茶色の瞳、それに吸い込まれそうになるのを必死で堪えながらグラスを傾ける。
あまり僕の好みの形ではない彼女の足首を見て、少し大袈裟にかしげるその首の傾きを見て、二人の間の距離感がいたずらっぽく笑うのを見て、茄子とピーマンを口に運び続ける。
彼女のアパートへと二人歩く。外は涼しげ。街灯が僕らを照らし古風な土塀に影を落とす。角度がついて少し重なる。
彼女の影を睨んでも目が合うことは無かった。

僕が辞めるなら、と彼女も仕事を辞めた。
ふたりの石川県での時間は新米フレンチシェフが作るオムレツにかかったベシャメルソースのようにたっぷりと僕らに降り注がれてありあまるほどだった。少し酸味が強く猛暑の中でしっとりと濡れる眉間に皺が寄る。

まだ空が白む気配を持たず優しさとも言える涼しさが暗闇のなかに潜む午前3時に出発して、僕らは日本一と呼ばれるダムへ車を走らせた。
とてつもない迫力の放水を間近に感じて、ケーブルカーとロープウェイを使って山の上まで行った。二人揃ってカレーも食べた。
一通り観光が終わってあくびが止まらない僕たちはホテルへ入った。
ホテルで休憩しようと言ったあとの反応や、着くまでの道中の雰囲気。駐車場へと入る。ウインカーの音が脳内に響き渡り白々しい顔で部屋を選んで、お互いに何か話したいまま無言でドアを開けた。
部屋に入り彼女はすぐにベッドへ横になり携帯をいじって、僕は歯を磨いた。煙草を吸ったあとで隣に寝る。手を伸ばせば触れる距離で、他人のように寝ている彼女。何度も起き上がり喉が痛くなるほど煙草を吸った。
したたかにセレナーデのような寝息を立てて生きている彼女を見て、短く切ってから初めて触れるその髪を鮮度のない指で梳かす。心臓の鼓動は彼女に聞こえていないかと不安になるほど大きく、そして速く鳴る。
金魚すくい、ポイが破れて後ろを振り向くと誰かが笑ってくれているような。
緑色の絵の具に黄色を混ぜると黄緑色になるような。
そんな心地よさに似た僕らの関係の曖昧さ。それが崩れ落ちて一番傷つくのは僕自身だと分かっているから、彼女の中に入っていくことをしなかった。怖かった。明日も明後日も、二人がもう会わなくなっても、このままでいたかった。
利己的で臆病な僕は彼女を起こし家へと帰った。

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金沢での最後の夜は、二人で花火をした。
砂浜へ向かう道すがら、車中の音楽に悩んでいると「あれ、かけてよ」と僕が彼女に前に勧めたバンドのリクエストがあった。名古屋にいるときから聴いていたアルバムは様相を変えて車通りの少ない高速道路を彩る。
砂浜に着いて外に出ると満天の星空が広がり、嘘みたいに綺麗だと彼女は言って流れ星を数えていた。
火花の色が段々と変わっていく手持ち花火は、僕らの7ヶ月を表していた様に思う。

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ひと夏というには長すぎる、そんな恋をして自分がどう変わったのか。彼女をどう変えてしまったのか。今はまだ分からない。
これからまた新しい生活が始まって少しずつ彼女との思い出が向こうの山の中に暮れていく。
薄くなる笑顔の発光のなかでいまだにあの矯正器具は一際輝いて浮かんでくる。

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