彼女のくしゃみすら聞かないまま

 

 「ジャニス・ジョプリンって知ってる?」知らない。「ジミ・ヘンドリクスは?」知らない。「カート・コバーン、ジム・モリソンはどう?」知らない。
ロックスターはさ、27歳で死ぬんだよ。だから俺の余命もあと半年無いんだ。
「でもロックスターじゃないでしょ。」
ごもっともだった。

 27歳にもなって好きだとか恋だとか言うのはダサすぎて、そうなるくらいなら本当にこの歳で死にたいと思っていた。それでも彼女の、12月に降る初雪のような儚く透き通った声を聞くと、身体の全ての感覚器が熱く反応し僕の赤血球は焦燥を伴いながら毛細血管のなかをまるでその声が酸素よりも大事であるとでも言いたげに運んで行って、身体中のありとあらゆる部分にすーっと溶け込ませていく。
2月の半ばを過ぎても名古屋には雪が降らない。

 職場では眉を描く程度で化粧をしない彼女の唇にはその日、唐紅色が差されていた。彼女が白い色の酒を飲む間に僕が煙草を吸うと、その紫色の煙越しに見る赤はより艷やかに見えた。

 彼女の一挙手一投足で僕の心は恐ろしいほど揺り動かされる。
バスを待つ僕の左右の肩に後ろから両手を置いてくれば、太陽が消え去ってしまって、いま中空にぽつねんと浮かぶ月が一生その場から動かないでいてもいいとさえ思う。
彼女が他の男と楽しげに話し、きらりと輝く矯正器具を見せて莞爾し透明な笑い声が僕の鼓膜を振動させれば、顔を真っ白に塗り上げ道化師になって知らない街で泣いていたいとさえ思う。

 ジミヘンのギターやジャニスの歌声も、彼女の笑い声には敵わない。


Maybe
Whoa, if I could ever hold your little hand
もしかしたら
私があなたの小さな手を握りさえすれば

Oh you might understand
あなたは分かってくれるかもしれない


Maybe / Janis Joplin

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