バーの店員とホテルに行って勃たなかった話

 五感のうちで一番記憶を呼び覚ます能力が高いのは嗅覚だという。
僕が生活をするたびに指に染み付いた君の味気ない密の香りが鼻に入る。いつもは半分だけ吸う煙草を今回も根元まで吸い尽くした。食事をとる時、歯を磨く時、全ての場面で一昨日に見た暗い部屋のベッドのなか隣で息を吐く君の横顔を思い出す。

 君はいつも母親がつくるという耳飾りをしていた。初めて会ったときも。最後に会ったときも。それは大仰すぎず控えめすぎず、大きい目とすっきりとした鼻、少しだけ前に出た歯をしまう薄い唇をもつ君に良く似合った可愛らしいものだった。
友人達は家へ帰り、僕たちは二人きりで遅くまで開いているバーへと入って向かい合って座った。長い時間をかけて同じだけ飲んだ君と僕は、言葉少なにもう次に会うことはないと気付いていたのかもしれない。君が右肘を机にかけ耳元を露わにし、そのピアスを見せたときに少なくとも僕は気づいた。君はどの瞬間に気づいていたのだろう。肘をもたれたままグラスの涙を物憂げに見つめていたときだろうか。それは君にしかわからないし、僕は今後知ることもない。

 様々な思いが交錯していた。この街を離れること、君が昔の男を未だに引きずっていること、必要のない体裁、道を横切る猫。そもそも不可侵の領域にいた君を二人だけの部屋へ連れ込んではいけなかったのかもしれない。
結果は僕のが機能しなかったということ。ありあまるほど優しくなりすぎた。君と向き合う前に自分と向き合うべきだった。世の中の流れは速すぎて横顔を追うのに精一杯だった。

 結果として残った過去が消える事はない。お互いに残った傷も。しかし絶えず流れるこの世の中にいる限り薄くなっていく。この指の匂いも、流れる風に乗って行ってしまうのだろう。

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