見出し画像

『続・ゆっくり、いそげ』を読み返している。

今月末に読書会をすることもあって
『続・ゆっくり、いそげ』を読み返している。

読んだ本の内容はほとんど忘れてしまうタイプなので
2度目だけど
「おぉおもろいなぁ」と感心しながら読んでいる
(感心って偉そうか、、すいません)

気になる箇所に線を引きながら読んでいるんだけど
その中でも特に共振を感じた箇所を引用してみる

そもそも「自分のやりたいこと」ってなんだろう。
ぼくの場合も、中には中学時分からまわりには「獣医になる」「家庭裁判所の調停委員になる」「広告代理店に行きたい」など、自分の将来の夢や職業をはっきり言葉にできる友人がいたりして、はっきりしない自分と比べて焦る気持ちになることもあった。自分のやりたいこと、就きたい職業なんて、なかなか思い浮かばないかったからだ。ただ、ちょうど30歳前後の頃、先の「社会起業家」という言葉との出会いとあわせて、自分の中のこうした焦る気持ちとうまく折り合いをつけれる考え方にたどり着くことができた。それは人生の目的地をbe動詞で定義すればいいのではないかというアイディアだ。

Doの前にbeがあるという話はある界隈においては
散々こすられている言説で、ぼくもまぁそうだろうと概ね同意する。

場の設計などをしていても
結局はいろんなテクニックよりも
どう在るか、どう存在しているかが場に出てしまうように思う。

だからワークショップやらをサイエンスしすぎることにあまり興味がない。

話を本筋に戻す。

ぼくの場合はどうだろう?と改めて考えてみると

  • 遊び心を持っていたい

  • 楽しんでいたい

  • 試していたい

  • 冒険的姿勢

  • 美しいほうを選べるようにしたい

ということが思いつく。

ギュッとまとめると
たのしく、美しく。

というのが僕のテーマなのかもな思う。

いつも正しくなんていれない。
適度に、いや多めに間違う。
ミスをする毎日だ。哀れにも稚拙。

でも、たのしくいたい。
可能なら美しいほうを選んでいきたい。

選択をする際、行動をする際に
「その選択は美しいのか?」ということを自分に問える自分でいたい。
「つまんねぇことすんなよ」と自分を諭せる自分でいたい。


それが担保されるのであれば確かに職能の表記はなんでもいいかもしれないと思う。
しかし同時にこれが担保できる職能やスタイルを選ぶことにはなる。

しかししかし
大前提にこの
在りたい私というレバーを握っておきたいよなとやはり思う。

今、編集やディレクターという職業をいったん手放したタイミングなので余計にそう思う。
僕は別に編集やディレクションの仕事が嫌いではないと思う。
しかし、在りたい自分に反するものになることを要請してくるある種の力学には抗いたい。

でないと私が私である意味があんまりないし、病気になるので。

さてこれに
先日皆さんに教えてもらったこれらを掛け合わせると、、

、、、何かがわかるかと思ったけど
何にもわかりません!笑

ここからもうひとつ展開しようと思ったけど
わからないのでここまでにします!

よし。
日々は続きます。

お読みいただきありがとうございます!