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人生の時間は、自分のじかん

9月の16日にバスケットボールをしていて、アキレス腱を切ってしまい、(ダッシュしていたら突然切れた)その翌週には手術。

安静に過ごせと言われていたのに、見事にすっ転んでしまい、手術箇所を再断裂。そして、再手術。

わずか20日の間に二度も全身麻酔の手術を行い、心も体もヘトヘトである。

そして二度目の安静期間は1度目のそれよりずっと厳重で、医師からも「2ヶ月はギプス固定で安静に」と言われてしまい。

「えっと、今、10月中旬だから、、2ヶ月後は、、

年末やないかい!!(謎の関西弁)」

ということで、年内は足を固定して片足で過ごす日々。

なんていうか、その。ずっと家にいます。

僕、ずっと家にいます。

出歩くのは基本的にリスクが増えるので、近所といえども積極的には出かけれず、家でゆっくり本を読んだり、Netflixでテラスハウス全部見たり、今後の人生について考えたり、好きだったあの子について考えたりしながら日々を過ごしています。

家事をするのも結構に大変で、ひとつひとつのことが時間がかかるので、(シャワー浴びるにしても、足にビニール巻かないといけないし、ずっと片足だからバスタブに腰掛けながら片足あげてシャワーとかさほど気持ちよくないシャワータイムだしはぁ面倒。書いていても面倒。)家事をしたり、猫と遊んだりしている間に割と時間は過ぎてゆく。

季節は秋から冬へ移動中。平塚市では16時半には防災スピーカーから夕焼け小焼けが流れる。その頃にはあたりはしっかり薄暗くなりはじめている。日が暮れるのが早くなったね。毎年思うことだけど、12月の下旬の冬至に向かって日は短くなり続けるのだ。日中の時間が縮んでいく寂寥感たらないよね。

秋と春の微妙な時期にぴったりの。というか、その時期しか着れないYAECAのコートの出動機会はないまま2019秋が終わるだろう。

32年間の人生を見渡しても、こんなに動けなくなったことはない。

サッカーをしていた時だって怪我したと思うけれど、ここまで重症じゃなかった。動けなくなって思うのだが、僕はけっこう動く人だったのだ。見たいものがあれば見に行き、家にいてもじっとしていることがあまりないというか、そんなにせわしいわけでもないが、僕にとって身体性を駆使して移動して、景色を動かしたり、人に会ったりすることは本当に当たり前に好きなことだったので、それがない時間というのはおそらく人生ではじめてだ。

なかなかに興味深い時間を用意されてしまった。

入院している時にお見舞いにきてくれた友人がこんなことを言っていた。ちなみにその友人は1ヶ月前に仕事をやめ、次の道を模索しているところだった。

「人生の時間は、自分の時間なんだと再認識するのに1ヶ月くらいはかかった」

日々のルーティンに入ると、私が日々をつくるのではなく、日々というシステムが私を包括しだすようなところがある。
やらなくてはいけないことが大量に発生し、日々は生きるものではなくて、こなすものに変形して。
そうして、日々に取り込まれた後では、人生の時間に限りがあることだとか、それはあなたの、私の持ち時間なんだという事実がうやむやになってくる。

僕の場合は、平均寿命でいくと残り50年ほどの時間で。それは自分の持ち時間なんだよね。こうしている今も減っているけれど。
だからやっぱり自分が良いように使いたい。

人生の時間。ほんとうにあまり長くはないんだ。


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