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自分の為の本と、もしも出会うならば

「これは、自分の為に書かれた本だ」
「ここに登場するのは、自分だ」

そう思う体験が、瞬間が、読書をしていると訪れる。
……という話をよく聞く。けれど『私』は読んでも読んでもどこにも登場しないし、私の為に書かれたに違いないと思える本と出会ったことはない気がする。それは悲しいことなのだろうかと考えて、違う気がするなあといつものようにぼんやりと思った。
ここにいる『私』には世界は動かせないけれど、向こう側の『誰か』は世界を動かす力を持っていて、『私』は『誰か』と旅をする。どんなイメージなのかと言えば、背後霊のような自分を想像してしまい自分の想像力の何だか残念さを噛みしめる破目になった。何だ背後霊って、せめて守護霊がいい(特に何かできる力はないけれど)

私の為に書かれたような本と出会うことはあるのだろうか。
ここにいるのは私だと思うような誰かに出会うことはあるのだろうか。
もしも私だと思うような誰かが、まったく救われなかったらどうしたらいいのだろうか。ああ、だって私だものなと思うのだろうか。

もしも、というものは何を考えても尽きることがない。
だから、今まで生きてきて選ばなかった方を、もしも選んでいたら、私は私の分身のような誰かとどこかの物語で出会っていたのかもしれない。
だけど私はもしもの方を選ばなかったから『私』なのだ。

世界は広いから、私とそっくりな人がいるのかもしれない。それこそ宇宙規模で見たらもっといるのかもしれない。だけど探すには時間もお金も足りなければあてもない。本の中なら、今も昔もこの世界も異世界も行き放題だし生き放題だ。誰かの心の中を覗くこともできる。悪にもなれる。
何てことだ。

いつか私は選んだ先で、私の為に書かれた私の物語を見つけるだろうか。自分で書いても今はまだ見つかっていないものを、誰かが書いてくれているのかと思うと、途方もなさに少し恐れをなした。
新しい惑星を探したり、砂浜に落ちているガラスの欠片の中から同じ形を見つけるくらい難しいんじゃない?

出会えなくても、私は本を読むんだけれど。私の為に。


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