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3月26日 脳内調停員、過失割合に迷う

 今日のことなんですが。 

 スクールバスで帰ってくるはずの次男坊を迎えに行く所、

「学校の手違いかと思いますが、お宅の息子さんがスクールバスに乗らないと思って(家庭の都合でそういう時もある)、学校に残ってますので迎えに来ていただけませんか」

 という電話を急に受ける。

 あと5分でスクールバス停に着く、という時間だったのですが。

 しかたないので、そこからさらに20分、車を走らせて学校まで。

 こちらも「バスに乗るか迎えに行くか」確実に連絡してなかったし、今日は離任式というイレギュラーイベントだし、お互いの連絡が不足していたのは確かなんですが、こういう場合、

「私はどこまで相手を責めたらいいのか、または相手に謝ったらいいのか」

 という問題が発生するんですよね。

 例えば、交通事故に遭った場合、起こした場合、それがどちらにどれだけ非があるのかその瞬間に判断して

「すみませんでした」

 なのか

「おいこらわれぇ」

 なのか、対応を決めなければならない時がありますよね。

 諸外国の場合、よく聞くのですが

「謝ったら負け」

 という風潮はあるような気がします。

 日本では、謙譲が美徳、という時代も確かにありましたが現代社会においては、この謝ったら負け、責めに入るが勝ち、という考えは徐々に一般に浸透しているような感覚がありますねえ。

 モンスタークレーマー、モンスターピアレンツという言葉まで生まれている昨今、私の立場としたら、学校側をただひたすら

「どうしてうちの子がバスに乗らないなんて思ったんですか? どうしてバスに乗る時間の前に家に連絡をくれなかったんですか?」

 とたて続けに責め言葉で問い詰める、というのも、日頃ストレスの溜まりまくった身にはたいそう魅力的ではあったのですが、こんな時につい

「外面のよさ」でいい人を装いたくなる瞬間もあったりしまして。

 結局、学校に着いた時に、神妙な表情でスーツ姿のまま吹きっ晒しの玄関先で立ち待ちしているの先生方と、彼らに囲まれて、能天気に笑っている我が息子の姿をみたとたん、責めのことばは全て頭から吹っ飛んでしまいました。

 そうして、

「1年間お世話になりました」

 と、当たり障りのない挨拶をして子どもを連れ帰った自分は、よく言えば良識あるつつしみ深い大人。

 悪く言えば、責任の所在について切り分けの判断がつかない、意識の低い面倒くさがりな人間。

 と、まあそのどちらでもあったりして。

 時々、自分の中に冷静かつ有能なる調停員が住んでいて、起こったものごとの過失割合を速やかに正確に、そして客観的に判定してくれればよいのに、と思います。

 加害者として、あるいは被害者としてそれをどう受け取るかはその時次第なんですがね、結局は。

 今回は、少し落ちついてから脳内調停員に訊いてみたところ

「8:2で有利なんじゃないですかねー」

 との返事を頂きました(あくまで妄想)。

 言動に自信を持つ、ということと自身に謙虚に向き合う、ということのバランスについて、何かと考えてしまった今日このごろでありました。とさ。

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