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「夏の甲子園中止」〜カメラマンの想い〜

「夏の甲子園」が中止となった。そこを目指す地方大会も全てなくなった。

子供の頃、ボクが最初に覚えたスポーツはソフトボールだった。
「すぐに大きくなるから」という親の声とは裏腹にユニフォームは6年生になってもダボダボ。外野に球を打ち返した記憶もないくらい非力なバッターだった。

ただ、左利きで足が速かった。任されたのは1番レフト。バンドであれ内野ゴロであれ、とにかくボールが前に飛びさえすれば相当な確率でセーフになった。ダイビングキャッチが大好きで、抜けると思われた大飛球を派手なジャンプで仕留めた翌日なんかは、クラスでそこそこのヒーローだった。

けれども当時そのクラスには次元の違う野球少年が1人いて、アホほど身体がデカかった。授業が終わればリトルリーグの厳しい練習に向かう日々。小学生から硬式野球を始めた彼がクラスメートのソフトボールに興味を抱くはずもなく、ボクらもまた彼の掲げた目標など知る由もなかった。

「将来の夢は野球選手」が男子人気ナンバーワンだった時代。アホほど身体がデカかった彼はその後大阪の名門校でレギュラーの座を獲得。夏の甲子園で「深紅の優勝旗」まで掴み取ってしまった。ボクの人生において、夢を叶えた人間を初めて見た瞬間だった。

いまボクはカメラマンの仕事を生業としており、有難いことに高校野球にも少しだけ携わらせてもらっている。撮っていて純粋に楽しい。

そんな、元高校球児でもないボクですら、撮影で初めて甲子園の土を踏んだ時には鳥肌が立ち、背筋がピンと伸びた。ましてや、幼い頃からそこを目指し、血の滲む努力を積み重ねて来た選手たちにとっての甲子園は、どれほど大きな存在であるのだろう。

選手たちだけではない。例えば母親。夜明け前からお弁当を用意し、慌ただしい時間の合間に練習の送り迎え。日が暮れ家に帰ってきたらドロドロに汚れたユニフォームの洗濯。破れたヒザの縫い合わせ。息子が出場するかどうか分からなくても試合の日にはスタンドに駆けつけ、その瞬間を待つ。攻守交代のわずかな時間を使い、ボクらカメラマンにまで水分や塩飴の差し入れという気遣い。これらを何年も何年も繰り返す。

「一種の死に近い感覚。(中止を)僕たちは味わっていないし、どんなことを言ってもきれいごとにしか聞こえない。」(埼玉西武ライオンズ山川穂高選手)

ほんとそう。「この経験は将来必ず役に立つ」とか「気持ち切り替えて」など、簡単に言えるはずがない。今、こんなかたちで夢に向かう道を絶たれた18歳に必要な言葉など、何もないのではないか。

ただ寄り添う。いま我々大人ができるのはしっかりと寄り添い、彼らが発するほんの小さなサインも決して見逃さないこと。

中止決定から1週間が経過した。各都道府県において独自の地方大会開催の動きも出始めている。今後ボクはおそらくそちらに向かうことになるだろう。

感情が入りすぎると視野が狭くなるので撮影時はできる限り平静を装わねばならないが、正直今のところ冷静にシャッターを押せる自信がない。

次回現場に入る際には、先ず人として選手、保護者、関係者各位に出来る限り丁寧に接していこうと思っている。撮影はそれから。

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