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『物語論 基礎と応用』/本・物語論

人間だけが物語を語り、物語によって現実を理解する。では、「おもしろい物語」とは、どのように作られているのか。プロップ、バルト、ジュネットらの理論を紹介し、具体的な作品の分析から、その設計図を明らかにする。最もわかりやすいナラトロジーの教科書。

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 なにはなくとも読みやすくていい!
 前半の理論編は、その名の通り物語論の理論についてシステマチックな分類や説明をしているんだけど、わかりやすいし日本語の特徴についても触れられていてありがたい。後半の分析編は、2017年の本なので近年の作品にも触れられていて、これまたわかりやすいし読みやすかった。
 同著者の『ナラトロジー入門』は、より理論的でこれまたいいらしいんだけど、絶版なので上手く取り寄せないとなんだよなあ。早いうちに読んでおきたい。

 ではあとは、パラパラと引用&感想。

・この手の本を読んでいて、すっかりおなじみになってきたプロップの機能だけど、思い返すとこの前読んだ『ザリガニの鳴くところ』は、この機能的にかなり忠実に書かれていたんだなと。

機能=物語の筋の展開に直接影響を及ぼす人物の行為

機能① 家族の成員のひとりが家を留守にする(定義は「留守」)
機能② 主人公に禁を課す(「禁止」)
機能③ 禁が破られる(「違反」)

p.19

 最初の3つだけでもかなりそれっぽいよね!
 ついでにプロップの著書の書名に取られている「形態学」について、ゲーテから取ったとし、さらにこんなふうにも書かれている。

 二十世紀前半には生物学(特に発生学)が流行しており、その影響を受けたものでもあるだろう。生物学で形を分析するには、生物を解剖してバラバラにして、その一つ一つの部分を調べることになる。同様に、プロップは物語の各部分をバラバラにして一つずつ調べたと言えるが、単にバラバラにしただけでなく、有機的にとらえている。

p.24

 こじつけっぽくなりそうだけど、ザリ鳴き(急に変なふうに略した)の著者のバックボーンとも関連づけて読めなくもない……?

 ちなみにp.48の「黙説法」でもめちゃくちゃザリ鳴きを思い出したよね。ザリガニが鳴きまくっている。キィーキィー!

・日本における「物語」という言葉について、

 語感として昔話や虚構の話というイメージが強いように思われる。その点、ナラトロジーを「物語論」と訳すことは、誤解を生じる危険性がある。

p.39

 と、している。
 これは感覚的にすごくわかる。そんでもって実のところ「昔話や虚構の話」という感じがいいな、と思ってたりもするんだ!

・物語論に先立つロシアのフォルマリズムと同様に、

 物語論でも、「内容」と「形式」を分割して考えた。この対立をフランス語でhistoire(イストワ
ール、物語内容)とdiscours(ディスクール、物語言説)と表した。英米の理論ではこれをストーリー
(内容)とディスコース(形式)と呼び分けるのが一般的である。その上で、同じ内容(物語内容、ス
トーリー)。異なった形式(物語言説、ディスコース)で表すことができると仮定するのである。そし
てそのさまざまな形式(語り方)を研究することとなった。(中略)
 この「形式」「内容」に加えて、「物語行為(語り)」のランクを追加したのが、ジュネットの「物
語のディスクール』である。では物語行為(語り)とは何だろうか。
 これを知るには、ジュネットが影響を受けたフランスの言語学者、エミール・バンヴェニストの言
語学を知る必要がある。伝統的な言語学では、主に文の「形式」と「内容」が対象とされていた。バ
ンヴェニストはそこにその文を発話する発話者と、その聞き手という二つを分析に入れ込んだ。現実
に言葉を使うということになると、私たちは、具体的なある時点において、どこかの場所で、誰かに
向かって話をする。バンヴェニストの言語学ではこのように、言語を話し手と聞き手の間のコミュニ
ケーションとしてとらえた。このモデルでは、文の「形式」「内容」に加えて「それを話す人」が分
析に加えられることになる。
 ジュネットはこれを踏まえ、「形式」(ジュネット理論の翻訳では「物語言説」)と「内容」(同じく「物語内容」)に加え、「物語行為 narration」(語り)の概念を導入した。

p.41-42

 ゲーム用語でナラティブって言ったら、一回性みたいな文脈で読んでいたけど、このコミュニケーションに着目した物語って感じかしら……。形式っていうより語るという行為に重点をおいてるようなイメージがある。と、ぼんやり。

・オーバーラップした語り

 英語やフランス語など、ヨーロッパの言語では、常に客観的な位置から物語世界を眺めて語ろうと
する。このため内面を書くにも、間接話法で書くのが標準である。
 自由間接話法が発達する以前、人物の内面を表す場合には、直接話法を使用したうえで、he said to himself(彼は独り言をいった、彼はひとりごちた)という語をその後に続ける方法がよく使われた。
これが日本語訳されると「彼は独り言をいった」のようになるが、実は人物たちは独り言をつぶやい
ているわけではなく、心の中で思っていることの場合が多い。(中略)
 自由間接法はあくまでも「間接」話法である。間接話法では、登場人物を外側から客観的に描きつづける。このため、人物の内面とは一定の距離を取られている。
 日本語の言語習慣はそうではない。(中略)
 内面が表される場合も、日本語では人物と一体化した語り方になる。これは、自由間接話法のようにあくまでも人物と距離が取られた語り方とは異なる。

p.114-115、118

 そして、『砂の女』から例文をあげ、

 これはあくまで地の文であり、語り手が人物の内面を代弁している文である。というのも、直後に、「彼の存在は」と「彼」という三人称が出てきていることからわかる。換言すれば、語り手は完全に人物に同化するわけではない。人物のすぐ「背後」といってもいい位置に移動し、代弁するように語る。私はこういう例をオーバーラップした語りと呼んでいる。

p.118

 おおー、なるほどねえ! これは面白い!
 オーバーラップした語りかあ。最近読んだものだと『空色勾玉』がすごくフィットする。地の文があって三人称なんだけど、すごく一人称的な語りと視点なんだよな。なるほどねえ。

 あとは、完全に感覚だけど、近代文学で欧米の小説が乾いた感じがして、日本のものがじめっとした感じがしたのは、語りの人称に限らずとも、作中人物にオーバーラップして、地の文が生っぽいからというのはありそう!
 ……と思ったけど、翻訳の段階でオーバーラップされてたりもするのね。まあでも言語的特性はありそうね。


 歴史やルポルタージュ、ノンフィクションなども物語の形式を通じて伝達される。これらのジャンルでは、一般的にはまず対応する現実があって、それを誤謬なく伝えることができれば、事実を語った文となるはずである。しかし、事実それ自体は、認識不可能なものであり、多かれ少なかれ語り手によって物語化され、編集される。その際、語られる時点を現在として描いたり、人物の内面を語ったりすればするほど、典型的な物語になっていく。
 一方、小説や映画などの虚構のほうは対応する現実はあらかじめ存在していない。しかし完全なる虚構もまた不可能で、現実の出来事をモデルにしていることが多い。読者や観客も、虚構をあたかも事実であるかのように感じるので、登場人物が殺されたらいたたまれない気持ちになる。紙の上に殺されたと書いてあるだけであって、本当は誰も死んでいないのにもかかわらずである。
 私たちは現実を物語的に把握していて、虚構の物語も現実として把握しているのだ。

p.137-138

・精神分析の文脈との接近もあると思うけど、それよりなにより、SFやファンタジー好きからしても面白い。
 どっちみち、完全に異なる世界を描くことは難しく、受け手にはさらに困難なので、多かれ少なかれ現実の模倣が入るんだよなあ。

・p.228からの「『蒲団』の内面描写」を読んで、『蒲団』は思ったより客観的に描かれているとのこと。読んだことなくて、イメージでめちゃくちゃ主観的なジメジメ小説だと思ってたので結構意外でした。

・最後に、例として挙げられてて面白そうだと思った作品たち。
小説、『ビラヴド』『ペドロ・パラモ』
映画、『アンダーグラウンド』
 これらは気になるのでリストに突っ込みました。本を1冊読むと読みたい本が複数冊増えるので、たぶんここから永久機関が生まれるんじゃないかな??? まあ、いつか読んだり見たり、可能なら感想を書いたりしましょう! では!

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