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私が活動をはじめたわけ 


 自分で始める前の団体の時のボランティアをいれるとかれこれ4年間は子どもの支援領域に携わってる。

えみはどこに向かっているの?
そんなことを最近はよく親と話す。

両親も公務員で、安定志向ばりばりの川邊家に生まれた私が、なぜこの活動に取り組み、自分は一体どこを目指しているのか。

2023年、3月。休学も終わりを迎え、将来について決断する時期だからこそ改めて整理しておきたい。


中学時代の自暴自棄

まず、自分の大きな大きな、根底にある価値観を形成することになった中学時代のお話。

私は、兄、姉の3人兄妹の末っ子として生まれた。
父は、スポーツには厳しくて、野球をはじめた兄に対しては特に熱心過ぎるほどだったように思う。毎晩遅くまで小学生の兄が素振りをし、試合後の車の中では反省会がなされ、よく怒られていたのを見ていた。それでも頑張る兄を見ながら、苦しくても頑張ることが重要なんだと思っていたように思う。

地域的にも田舎で、根性論が強く、中学の部活はほとんどばりばりの体育会系しかないのに強制参加みたいな町で、駅伝や陸上はその時期になると駆り出される仕組みで、掛け持ちでやっていた。

私もバレーボール部と、駅伝を掛け持ちすることになる。

毎日6:30に家を出て、3キロ走ってインターバルしてから、バレーの朝練。
放課後も地獄のインターバルをしてからバレーの練習。

今、思えばよくやっていたなと思う。


同級生も怪我でどんどん離脱して、最後、私とバレー部の後輩だけになったとき、私は自分でやめてしまった。

もちろん、身体的にもしんどかったのもあるけど、

部活ではキャプテン、でも駅伝では後輩の方がはやい

そんな状況がプライド的にしんどかったんだと思う。

今でも覚えている。ボスと呼ばれる当時の顧問に辞めたいと言うために、何週間も悩み、意を決して職員室に行って、泣きながら辞めたいと言いに行ったときのこと。

そのときに、
「お前以外の4人でタイムはかるから、アンカーにだけ出ろ」と言われ放置されて走らされる日々。
その後も、

「お前にはそんなに負担かけてないけどな」
「生徒会とかだと偉そうに言うのに口だけか」

と言われたこと。

今まで、苦しくても頑張ることがいいと思っていたから、頑張れない、逃げてしまった自分を責めた。

自分は頑張りきれない人間なんだ。

このときにそう強く思った。
それから少しずつ自暴自棄への道が始まっていく。自分は本当はちっぽけなのに、一方でみんなに見せてる顔は出来る子でしっかりもの。
そんな差に、当時の思春期の私は苦しくなってたんだと思う。

誰にも言えず、でも苦しいから気付いて欲しくて、色んな自傷系に走ってしまったときもある。

そんなときに、強く見えていた知り合いが自殺する。

一歩間違えればそうなっていたかもしれないと思うと、涙が止まらなかった。
誰か何か出来なかったのか。
なぜsosは届かなかったのか。

この経験が今の活動の全ての根底にある
「自殺する人をなくしたい」
という想いに繋がる。


大学時代の不登校の子との出会い


次に大学時代。

自殺する人をなくすにはその要因を減らすは現実的ではない、人を強くしようと考えて教育学部へ進学。

大学に入学後、すぐに学習支援をしている大きな団体でボランティアを始めた。

そこでの多様な背景を持つ子どもたちとの出会いが大きな転機になる。

わずか10歳。学校にもいけず、両親もおらず、障がいもある。

そんな子がポロと言う。

「やりたいこともない、中学まででいい。」

中学2年生。いじめで学校にもいけず、再婚で家にも居場所がない。

そんな子がポロと言う。

「生きている意味があるのか」

どうしてここまで傷付くのか。
どうしてここまで行くまでに誰か寄り添ってあげられなかったのか。

でも、拠点に通いはじめて、真剣に向き合えば、確実に変わっていく姿を見て、地域の中に彼らを支える居場所があることの重要さを感じた。

そんな経験が今に居場所事業に繋がっている。


成人式に来れなかった同級生

次に成人式での話。
私にクラスは30人ちょっと。

その中で来れなかった子がいる。

それは、不登校のままなかなか出て来れなかった子と金銭面的に振り袖を借りれなかった子。

町には不登校の子がいける教育支援センターもフリースクールもない。

学校に行けないことで繋がりが強い田舎だからこそ、町にも居場所を失っていく。結果として、出てきにくい。


後者の子は、高卒で仕事辞めて、失業の手当ても手続きできてない。
私と再会したときわずか所持金400円。
必死に行政窓口を教えるも、「自分の問題だから」と言って頼らない。

なんでだろうって考えたら、
学校でのいじめに対する先生の対応から不信感を抱いていたその子、兄弟もおおく我慢をしていたその子、経済的にもいつも大変だったその子。

きっと今まで色んなことを我慢してきたんだと思う。頼るという選択肢が、とっても高くなっているのだと思う。

こんな同級生を見ながら、
つくばや東京にはいっぱい支援団体があってまだまだ足りないけど、きっとこれから良くなる可能性がある。

でもプレイヤーのいない過疎地域はどうなるのか。
そんな地域間格差を感じて活動を地元で始めた。


そんな想いで活動を大学2年生のときにスタートした。最初は怖かったし、ましてや地元でやるなんてプレッシャーしかなかった。でml、

あの時は、1人でも救われる子がいるならやる意味があるって思ってた。これからきっとしんどくなっても、この気持ちは大事にしてたいな。


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