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金子誠一(神) 和製カンセコは未完の実質優勝戦士

あのバースが1988年永遠に離脱し、阪神はついに暗黒に片足を突っ込み始めていた。
だが、
だからこそ、
この年ドラフト3位で入団した金子誠一には絶大な期待が寄せられていたのだ。
人呼んで、いや関西メディア、厳密を期せばスポーツ新聞、、
もっといえばデイリースポーツが呼んだ、「金子誠一こそは和製カンセコ」であると。

カンセコという80年代の大谷翔平

カンセコとは1980年代のメジャリーグで大活躍をした外野手だ。
打ってよし、守ってよし、走ってよしの三拍子揃った名選手であり、メジャー史上初の40ホームラン40盗塁同時達成の快挙を成した偉人である。


金子誠一、将来の4番なり

1988年当時、阪神には大野、和田、中野といった将来を担いうる若い巧打者が台頭しつつあった。
だが掛布・バースが去った後、至上命題は甲子園のスタンドに叩き込めるスラッガーの育成だった。
確かに阪神には渡真利というダイヤの原石がいたが、伸び悩みは顕著であって新たなダイヤの原石を探していた阪神上層部は金子誠一の獲得に動いたのだ。


幻の暗黒期とホームラン

金子誠一が阪神に在籍した89年から95年は「暗黒期」と一括りにされがちだが、実はそうではない。

1992年に阪神は優勝しているのだ。

八木の、八木裕(神)の、、あの「幻のホームラン」がなければ、、、、
いや「幻のホームラン」があったら、、、もはやどっちがどっちだかよくわかんなくなったが、
とにかく八木の幻のホームランが成就していれば1992年に阪神タイガースはセリーグペナントレースを制覇しておったのだ。

ヒーローインタビューまでやっておいてホームラン取り消しって、今ならSNSで炎上どころかサイバー空間自体が大爆発すんぞっ。
デンマークにあるサーバーが「ボンッ!」ってなるはずだ。


白髪鬼・野村克也と清廉潔白・平光清

あの時の野村克也の抗議は凄まじかった。
若き野村克也は、まさに白髪鬼ホワイトデビルであり、1992年に丁度連載が開始されていたスラムダンクの安西先生そのものだった。
古田敦也の剣幕も鬼気迫るものがあったが、野村克也がキレすぎて已む無く古田敦也が止めに入るというホホエましい場面も。
古田の「もし、のび太がブチギレたらどうなるか?」を体現したキレっぷりだけでもこの試合を見た甲斐があるというものだ。

この2人の圧に負けた平光清審判が「ホームランを二塁打に付け替えて試合再開」という実に理にかなったジャッジメントを成した。
よくあの興奮の坩堝と化した甲子園球場で冷静な判断を下せたものである。
もっと熱くなって、野村克也と古田敦也を試合終了後にも関わらず退場させておれば阪神は確実に優勝できておったものを。

こうして、
1992年に阪神は実質優勝して力を使い果たし、
ここから嘘のようなボロ負け期、つまりは長き暗黒期に入る。



和製カンセコの謎

この1992年の実質優勝戦士の一人が金子誠一であり、その通り名が和製カンセコだ。

ではなぜ金子誠一は和製カンセコなのか?
著者が早朝から灰色の脳細胞を活性化して説明しよう。

kanseko  カンセコ
   ↓
kan eko   金子

蓋を開けてみればなんということはない。
だが恐らくは命名者だって気付いていない「掛け」がここにはあった。
35年の時を経て、
いまついに和製カンセコの謎は完全にっ解き明かされたのだっ。


未完の大砲・金子誠一


金子誠一
日本プロ野球所属年度 1989年〜1995年
通算7年
324試合 打率.225 11HR  
40打点 37四球 盗塁11 盗塁死6


阪神の栄枯盛衰まっただ中で現役選手として活躍した金子誠一は、お世辞にも良い成績を残してはいない。
だが「和製カンセコ」という異名にそぐわぬスケール感を漂わせた雰囲気のデカい選手だった。



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