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書くという行為は、サービス精神の表現

「読んでくれる人がいるから、書く」

それが、アプリ上のコミュニケーションツールだろうと、自分の手帳に書き込んだメモだろうと、恋人に宛てたメッセージだろうと、会社でつくる資料だろうと。基本的には誰かに宛てた言葉であることには変わりない。「自分」が相手であっても、自分が読むことに変わりない。相手への配慮が感じられると、読んでいて気持ちがいい。そういう意味では、ちゃんとサービス精神を持って発信しないといけないな、と感じた。

今朝方、やたらと周囲の心配を煽る趣旨の投稿をしている知人がいた。出来事について詳しいことは書いておらず、読んでいる立場としてはあれこれ想像を膨らますのだけど、全体像なんて掴めるわけ無く、考えられる最悪のシチュエーションを思い浮かべながら大きな心配だけが残った。同じような投稿を見たことある人は多いと思う。共通して言えることは、そういう投稿は「読み手の気持ちを考えていない」。

人は、噂話が大好きだ。バーに行けば他人の恋愛話に盛り上がり、週刊誌は有名人のゴシップを追い続ける。そういう「知りたい欲」からは抗えない。物語はちゃんと始めから最後から聞きたい。桃太郎の「桃が流れてきました」だけを聞いて誰が気持ちよく寝られるだろうか(どうやら桃関連の工場が川の上流にあるようだな、と見当違いのストーリーを勝手に構築すらするだろう)。話を最後まで聞いてあれこれ考えたり意見を言いたい、われわれは良い意味でも悪い意味でも俗っぽい動物なのだ。

だからこそ、尻切れとんぼばかりを投稿する人間は、正直好感が持てない。相手の気持ちを少しでも考えれば、できない投稿をよくする人間はたくさんいる。書いている文章を読めば、どういう人間かある程度判断できる。少なくとも、判断の基準にはなる。それが、TwitterだろうとFacebookだろうと。

読み手へのサービス精神がないがしろになっていないか。

そんな懸念を最近よく感じる。というのも、仕事でも恋愛でも同じ価値観が当てはまる気がしたからだ。読み手へのサービス精神がない投稿ばかりしている人間は、例えば恋人という関係になったとしても同じ傾向がみられるには違いない!(と可能性としては60%ぐらいの持論を立ててみた)資料づくりだって、自分しか理解できない物をつくって満足してないだろうか。

SNSの影響力は、数字で確認しやすくなっている。しかもフォロワーの大きさやいいねの数は比較的簡単に拡大することができる。だからと言って「読んでいる人の気持ちを考えること」は平安時代から現代に至るまで変わらないコミュニケーションの本質であり、決して忘れてはいけない事実。

ちゃんと見ている人は見ているのだ。ということの共有でした!

お前はどの立場から物をいっているんだ、というツッコミは全て受けます。笑

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