見出し画像

東寺覚書

曼荼羅が好きだ。なぜならでかい絵だから。

でかければでかい程良いという風潮は、怪獣然り観覧車然り家然りあるものだが、むろん宗教もでかい方が良い傾向にある。
例えば弥勒如来(菩薩ではなく如来。菩薩は修行中で如来は修行後らしい)は、クッソでかいと経典に書かれている。これはもちろん、嬉しいからである。巨大仏と呼ばれる大仏の殆どは観音だが、これも嬉しいからでかいのである。
本当を言えば昔チベットとかで宗教をやっていた頃はお仏像は小さくても別に良かったらしいのだが、なんかだんだんでかくなったらしい。嬉しいから。

曼荼羅の魅力に引き込まれて最近はずっとそれっぽい展示をやっている美術館に出入りしていたのだが、そうなると真言密教に興味関心が出てくるわけで。

そういうわけで、10月4日、でかい宗教をやりに京都府は東寺へ赴きました!

趣あるね。

東寺と言えば立体曼荼羅ですからね。3Dの曼荼羅ですよ、3D3D。


立体曼荼羅がある講堂は撮影禁止なので撮影をしていません、えらい!

網戸を開くと、中はほの暗かった。残暑に隔離されたような涼しさは陽の当たらない室内だからか、秋風の強さ故か、それはわからない。日傘を閉じ、緊張に滲む汗を拭う。
講堂へ入ってすぐに、中心に座した大日如来が目に入った。

でかい。東京タワーくらいある。嘘ではない。

金色に輝く法身は、僅かに差した真昼の明るさを抱き込むように明るかった。

菩薩部の側から入ったので暖かい歓迎を受けた気持ちになりながら、一旦全てに目を通すためにゆっくりと各像を眺めながら向こうの端まで歩く。
でかい像、ぴかぴかででかい像、ぴかぴかででかい像、東京タワー、ぴかぴかででかい像、顔がこわい像、顔がこわい像、顔が良い像。そういう並びをしている。
全部がほんとうにでかい。圧倒的と言うか、これでパワーとか秘めてなかったら嘘!みたいな圧を感じる。

そうして端まで歩いた後は中央へ行き、持っている中で一番ピカピカなお金を賽銭箱へ投げ、大日如来へ挨拶をした。

こんにちは!

挨拶は元気なほうが良い。


大日如来とはこの世の全てらしい。なんかね、宇宙らしいですよ。宇宙だし、土だし、私たちらしい。それから、ここにいる全部の仏も皆大日如来で、名前や見た目が違うのは状況に応じて姿を変えているからなんですって。
なので金剛界曼荼羅に描かれている1500尊くらいいる仏もみんな大日如来。
見学に来ている学生も、警備の方も、全員大日如来。


だが、みんながみんな大日如来みたいに大悲の心を持てているわけではない。
私にはそれが哀しいし、悔しいのだ。

私は世の中も世の外も全て愛している。だから戦争が起こったときは戦闘機の購入方法を調べながらマクロス7を見ていたし、家鳴りがしたら元気に挨拶をする。今年の目標は「もう誰も泣かせない」だ。けれど私にはそれは叶えられない、だって地球の裏側で流れた涙やベテルギウスの爆発はどうしようもないもの。

私の代わりに、もしも本当に大日如来がいてそれが全てであるなら、どうか良くしてやってくれないだろうか。そう思いながら、東京タワーくらいでかいあの眼差しを見ていると、もう本当に悔しくて悔しくて涙が出てくるものだった。
どうして宗教は人々を救おうとしているのに、実現されていないんだ。

当然、宗教の違いなぞは現代社会において然程問題ではない。真言密教は2022年の日本を鎮護してはいないし、マイナンバーカードのネット申し込みでは写真を撮る際は宗教上の理由で頭を布で覆っていても大丈夫だ。


講堂内は時折涼やかな風が流れていた。大日如来の宝冠にある優雅な飾りが、それに吹かれて僅かに揺れている。
私の目の前には本当にいるのに、私の目の前以外にはどうしていないのだろう。
信じる者以外も救ってくれはしないのかしら。


よろしく頼むと心の中で挨拶をして、顔の良い帝釈天に惚れ惚れしながら講堂を後にした。


偉いもんで、近くのカフェで仏像の見方勉強してから見に行ったんですよ。

グラスとカップが非常に素晴らしかった。

でも何がどうとかじゃあないですね。理屈じゃなく救ってほしいのだから。

本買ったりします、『不敬発言大全』が今一番気になっています。