おじさんという生き物
中高生の頃までは40・50代の男性は、総じて「おじさん」以外の何者でもなかった。
身内も学校の先生も通学中の電車で一緒の車両に乗り合わせた人もファーストフード店で隣に座った人もそこの店員も。
大学生くらいになると、「おじさん」には「イケてるおじさん」と「イケてないおじさん」がいると分かった。
当時熱烈に恋をしていたトヨエツも40代だったが、
毎日通学バス内で強烈な加齢臭を放っているおじさんやコンビニの店員に偉そうな口を利くおじさんと同年代ということに思いを寄せると信じられない気がした。
「分け隔て」することを覚えたのだ。
社会に出ると「イケてるおじさん」には理由があることが分かった。
それはやりたいことを持っているということであり、やりたいことをやるためには誰かの助けが必要だと知っているということだ。
その理解が彼を溌剌と見せ、穏やかで謙虚な姿勢となって表れ、若々しい身なりや言葉遣いをまとわせる。
もはやその男性はおじさんではなく、1人の尊敬すべき個人となっている。
「イケてるAさん」のように、個性を持つのだ。
そして今になると、驚くべきことに「イケてないおじさん」にも背景を見つけようとするようになった。
持って生まれた性格、家庭内の不和や上司・同僚・部下との相性の悪さ、与えられた仕事への不満や心身の健康状態。
そういった彼を取り囲む環境とどうにか折り合いをつけてやっていっている。
当然大事にしている考えや想いがあり、それを守るためには私に「イケてない」と判断されることなんて取るに足らないことだろう。
奥さんなのか、娘なのか、愛犬なのか、はたまた趣味なのか。
彼には彼を理解するセキュアベースがきっとあり、それ以外の「敵」に何と思われようと心乱されることなどないのかも知れない。
所在無さげな振る舞いや気に掛けてない(ように見える)身だしなみ、ぼそぼそと脈略のない話し方に至るまで、私にはとても変えられない、でも避けられないものとしてそこにある。
彼を修飾する側面として確かにあるだけだ。
何て自由で、個性的で、イケてないおじさんだろう。
上手くやるのもやらないのも私次第だ。
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