文字どおりに受け取ること

伝言ゲームの誤変換

友人がfacebookで面白い記事を紹介していました。

最近の文字起こしアプリはびっくりするくらいの勢いで精度があがっています。

伝言ゲームでは、
①Aさんが発する情報(声や文字、表情や態度)を
②Bさんが受け取り、
③Cさんに伝えるために受け取った情報を発し、
④Cさんが受け取る
という流れを繰り返します。

①が元の情報だとすると、②、③、④の段階で、元の情報が一度変換される必要があります。

この②〜④のうち②と④は受け取る際に誤変換することがあります。
聞き間違いや読み間違い、表情や態度をどの程度汲み取ったか(汲み取らなかったか)、です。

そして③で、一度自分が受け取った情報を再度発信するときにも、
やはり誤変換は起こりえます。
受け取った情報が部分部分で抜けてしまうだけでなく、自分の言葉に言い換えたり、付け足したり、といったことが(本人は正確に伝えようとすればするほど)
元の情報とは形を変えてしまう、ということです。

②〜④のどれか一つでも精度が欠けていると、伝言ゲームはどんどん盛り上がる(上手く伝わらない)というのがご理解いただけるでしょうか。


新人ホストの研修に小学生の国語ドリル

上記の記事を見たときに思い出したのが、以下の動画でした。
ホストクラブの是非だとか、「売り上げ100万円」の是非だとか、については一旦置いておいて、
なかなか的を得ている取り組みかもしれないな、と感じました。

動画では、新人ホストの教育に小学生の国語ドリルを使うという一風変わった取り組みなのですが、

読解→思考→伝達のうち、まず「読解」ができないとコミュニケーションは成り立たない。

そのため、「読解」を徹底的に身につける。
というものです。

伝言ゲームの②ですね。

動画内ではいわゆる「国語の勉強は苦手そう」な新人ホストがピックアップされていますが、
「読解」というのは実は奥が深いんです。↓


国語の正解は一つではないのか。

小学校・中学校の頃の国語の授業を思い出してください。
順番に音読して、本文からピックアップされた箇所に対してそれぞれの意見を述べる、といった場面が多かったのではないでしょうか。

大造じいさんはこんな気持ちだったと思う
かげおくりをしたちいちゃんはうれしかったと思う

そうやって多くの考えを出し合って、授業が進んでいった記憶があります。
また、傾向として、誰かの出した意見に対して反論を述べるというよりは、
どんどん多くの考えが出ること、に重きを置かれていたと思いますし、
実際に僕が小学生に授業をした時もそれぞれの児童が思い思いの感想を述べることは、
授業に張り合いが出ている感があったのも事実です。

僕は比較的国語は好きな科目だったのですが、父はずっと、
「国語は正解が一つじゃないから気に入らんかった。」
と言っていました。
たしかに、中学生くらいまでの国語は、僕もそう思っていました。
それでいて、そこそこ良い成績が取れていたので、
「正解が一つじゃないから面白いのになぁ。」
くらいに思っていました。

その調子で高校に進むと、一気に国語(現代文)の成績が落ちました。
(どの科目も全部成績はボロボロだったけれど)


大学入試の読解問題で、君たちの意見は絶対に聞かれることはない

あー、やっぱり数学みたいに答えが論理的に気持ちよく出る方がいいよなぁ、と思いかけていた頃、現代文の担任に、
「少なくとも大学入試の読解問題、特にセンター試験では、君たちの意見は絶対に聞かれることはない。」
「正解は必ず本文中にある。筆者の考えもしかり。仮に筆者に実際インタビューした時、それが正解以外の選択肢にあったとしても、本文中から読み取れないものは筆者の考えとは言えない。」
と、授業のたびに繰り返し言われて衝撃を受けました。

それまでいかにして筆者の気持ちを想像するか、登場人物になったつもりでその時の心情を考えるか、という、
本文中に書かれていない、いわば”行間を読む”という小学校の国語の授業から続けてきた作業こそが、現代文の読解の邪魔になるのだと気付いたからです。

言われた通りに、数式を解くように文章中から、筆者が述べていることだけを拾う習慣をつけると、今までズタボロだった現代文だけでなく、英語の長文読解までも、点数が飛躍的に上がり自分でも驚きました。

言い換えれば、国語だけでなく、本を読んでも普段の生活でも、それだけ自分の「勝手な解釈」で理解したつもりになっていた、ということに今になって気づきます。


”文字どおり”受け取ることができるかどうか

その現代文の担任は、続けてこんなことも言っていました。
「その文を読んでどう思ったか、君たち一人一人がどう感じたか、というのは異なっていて当然だし、そこに国語や文章の面白さがあるのは事実。
だけど、そもそも元の文からどれだけ正確に読み取っているか、という前提がズレてしまうと、君の意見と他の人の意見はいつまで経っても噛み合わない。
そして大学入試の限られた時間・量では、こと読解問題に関しては、その前提を確認するくらいでしか読解力を測ることはできない。
その中で、いかに元の文をそれぞれの勝手な解釈で読んでいるのかに気づくことが出来るかどうか、が、君たちが小学校から続けてきた、日本人なのに日本語を学んできた意味なんだよ。」
と。

小学校のうちは比較的それが分かりやすい文章なものが多いから、ついつい「その先の発展」として自分の考えを頭の中で自由に巡らせる方に重きを置きがちだけれど、
本来の「読解」というのはその前にある、筆者が書いた通りの文章から文面のまま、受け取ることこそが重要なことにに気づかないまま過ぎてしまう。

最初の文字起こしアプリの記事、面白い(滑稽だ)と思う人が大半だと思います。
それはどこかで、「自分たち人間はこんな簡単なことで間違うことはない。」と思っているから、ではないでしょうか。

「大半だと思う」と書いたのは、一度でも文字起こしをしたことがある人なら、笑うことが出来なかったんじゃないかな、と。
一度でも良いので、ニュースでもなんでも、たった1分程度の文章でも、一言一句取りこぼさずに書き起こすということをやってみるとわかるのですが、
これがどうしてなかなか、難しい。
「文字どおり受け取る」ことさえ、実は普段から日本語を使っていても、なかなか簡単ではないんです。


コメント欄を見てみると。

SNSやYouTube、あるいはニュース記事のコメント欄などで、いわゆる「炎上している」のをしているのをよくよく見てみると、
ほとんどの場合はコメント欄の議論が噛み合っていないことに気づきます。

「本文中に書かれていること」のほか、「世間一般的常識として知られていること」をお互いに共通理解しているかどうかの前提がないまま、
どこからが自分の意見なのか、何に対して賛成、反対しているのか、がお互い全然噛み合っていないんですね。
もはや、議論として成り立っていない。ただただ、思いついたことを反射的に書き込んでいって、それにまた反射的に反応して・・・結果的に元の”筆者””発信者”が言わんとするところからどんどんかけ離れていく・・・
結局のところ、「読解」ができていないんだな、と気づきます。中には「読解」した上でコメントしている人もいるんですが、それは反射的には難しいことなんでしょう。
文字どおり受け取る」ことができないまま、共通理解がないままに、「その先の発展」はあり得ないというのはこういうことだな、と。

これ、「炎上」ではなく「バズっている」の場合は少し違うんです。
「バズっている」というのは、コメント欄を見てみると、やはり反射的に書き込んでいる人は多いでしょうが、そんなに元の”筆者””発信者”が言わんとするところからは離れていない。
つまり多くの人にとって読解が優しいんです。


日常生活でも・・・

この相手が発信したことを文字どおり受け取る、ということの大切さ、難しさは、ネット上の方が難しいにせよ、日常生活でも多々問題が起こり得ます。

日本人は特に、かもしれませんが、言外の意味を探ろうとするところがありますよね。いわゆる「忖度」もしかり。

「あの人がこういうことを言ったのは、こう思ったからではないか。」
「こういう風に言われたのは、あの人が私のことを嫌っているからではないか。嫌っているに違いない。」

ややこしいのは、日常生活の場合は実際に発信する側も、あえて正確に発信していないケースもあるんですが、
それでもまずは「文字どおり受け取る」が出来ているかどうか、から出発することが重要ではないかな、と思います。

ましてそれを第三者に「前に○○さんに〜〜〜って言われてさ。」と話す時、
冒頭の”面白い伝言ゲーム”になってしまっていないだろうか、というところを常に意識していないと、
第三者として聞く側としても、これまた反射的に「それは○○さんがおかしいよね。」と反応してしまう。

そこにその人の解釈が入っていないかどうか、
解釈が入っているとすれば、解釈を切り離して、事実としての「文字どおり」はどうだったのか。

文字どおり受け取る」というのは、悪い向きに使われることが多いですが、
文字どおり受け取れて初めて、言外の意味へ発展させるというのは大学入試に限ったことではないと思うんですね。

伝言ゲーム、AIを笑っていることができるのは今のうちだけかもしれません。



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