理解できなくても、知っていること。


http://www.sanyo-railway.co.jp/media/1621573353.pdf


 

山陽電車で↑のようなポスターが貼り出されるそうです。
出先でFacebook開いた時にこの記事がタイムラインに流れてきて、忘れないようにシェアしてたので、それを見返して、なう。
 
これみた時に、すごくいいなぁ、と思ったんです。
 
 
例として適切かどうか、は、さておき、

男子諸兄には、若き日に親密になった女子が、なんだか突然イライラしはじめたり、冷たくなったり、かと思ったら次会った時は元に戻ってたり、で、戸惑ってしまった経験はあるのじゃないかと。
  
 
あれって、本当にびっくりするんですよ。しかも、個人差やその時々での差が大きいらしい、というのも後になって知ったことで、
知らないからにはもうパニックに。

見当もつかないから、こっちもイライラしたり、
キツく当たってみたり、逆に下手に出てみたり、
自分の何が悪かったのかとずっと過去のメールを遡ってみたり。
 

もちろん月経については知識はあるけれど、まさかその前後にもそんな変化があるとはつゆしらず。
 
 
で、どっかのタイミングで、あるいはその本人から僕は教えてもらい、知ることができたのですが、

 
「そんな副次的なことがあるって、教科書書いてたっけな。」
 
 
と。目から鱗というか、その段階では
「ほんまにそこまでのことがあるんかいな。」
と半信半疑なんだけど、どうも経過を追って様子をみているに、なるほど。

そして、そうなっている本人が一番、その状況に苦しんでいる、ということも。なるほど。と。
 
 
それを知らないままだと、もうどこまでいっても平行線。
 
 


僕にはどうやったって経験できないことですから、
完全に理解することは不可能なんだけど、知識として知っているだけで、こちら側にも心構えというか、余裕が生まれる。
 
そこからさらに、こっちはどんなふうにしたらいいのか、とか、
あるいは、そっとしておいていいものなのか、とか、恋人やパートナー、特に親しい人なら、場合によっては掘り下げるけれど、ね。


それすらを嫌がる人も、中にはいるんだな、というのも、やはり僕には知識と経験からでしかフォローできない。
だからそういう意味で、理解することなんて、毛頭不可能なんです。
知ることしか、できない。


そんで大事なのは、
誰しもみんながみんなに、そういうことはしない。当然。と、いうことと、
「だとしても今の言動は俺はゆるせない!」と、いうことも、あって当然。


 
電車やバスの中でも、エレベーターの中でも、ブツブツ何か言ってたり、ニヤニヤ身体を揺らしてたり、飛んだり回ったり、"独特の"行動様式の人と至近距離で居合わせる密室は、
色々と自閉症について知識や経験がある(ことになっている)僕でも、
 
「お、おぉ…。」
 
となります。たまたま備えてる拙い知識と経験で、意識の軌道修正をして、
 
「さよか。」
 
と、すぐに平静に戻るんですが。
で、たまたま居合わせた他人ですから、それ以上のことは何もしない。
 
 
人によっては、
「ちょっとこわいな。」
とか、
「離れて欲しいな。」
とか、場合によっては、
「鬱陶しい。」
と、不快に感じてしまう人もいるのかもな、と思います。
 
 

そういうふうに感じてしまうこと自体は、まったく「悪」ではない。
僕は、それを否定する気持ちにはなれない。
この考え方にはもちろん。是非はあると思います。

 
 
その感覚の大元はおそらく、自分が持っている知識や経験からは予測できないことに対する居心地の悪さ、だと思うんです。
  

 
例えば、いつも乗ってる電車に、いつもは見かけない、自分が聞き慣れない言葉、見慣れない肌の色の人が何人か乗ってきたら、
 
「お、おお…」
 
と思いながらも、
 
「旅行やろか」
 
「近くになんかイベントでもあんねやろか」
 
と、色々な想像力を働かせながら、意識の軌道修正をして、平静に戻る。


まったく、どんな人に対しても、「お、おお。」と感じずに過ごせる人もいる。
心のどこかで、僕もそうありたいな、と思う時もあります。
  
 
だけど、
 

そうなる日がいつか来るのかな、と、
そうならないといけないとのなのか、と、考えたときに、
 

「自分の経験や想像力の範囲では予測できない状態」
 
 
には、何かしらの戸惑いがあることは、別に責められるようなことではないだろう、と。
だからやっぱり、その感覚自体は、「悪」ではないと思うんです。
 
 
むしろ、「多様性」を受け入れようとすればするほど、
その感覚は増えていってしかるべきかもしれない。
 
多様性を受容する社会というのは、なんだか社会の側が「受け入れる」みたいなイメージがあるけれど、
それだけ多くの「自分とは異なる人とともに自分自身がその社会に内包される」ということ。
 
たまたま、自分に想像力や予測を働かせるだけの経験や知識があるかないか、というだけで。

何より、それを「悪」としてしまうとね、本末転倒だな、と。
 
 
このポスターに出てくるような特性を持つ人たちの多くは、
想像力を働かせたり、物事の見通しや予測を臨機応変に自分で組み立てたり、状況判断や客観視したり、するのをものすごく苦手とする場合が多いことが分かっています。
 

そして僕が知る限り、電車やエレベーターの中でブツブツ言ってたり、ニヤニヤ身体を動かしちゃったりしてる時というのは、
「自分の経験や想像力の範囲では予測ができない状態」
ゆえ、そういう行動をしている場合が往々にしてある。
 


それって、言い換えれば僕が、
 
「お、おお…。」
 
と感じるような場面が、ずっと続いているとも言えるんじゃないか、と。
 

たまたま僕はそれを
”心の中だけで留めるなり、スマホや車窓に視線を移して誤魔化したりすることで平静を保とうとする行動様式”の人、


たまたま彼らはそれを、
”ぶつぶつ口に出したり、ニヤニヤしたり飛んだり回ったりすることで、平静を保とうとする行動様式”の人。


 
本質的には変わんないのかもしれない。
 

 
その感覚を変に「悪」としてしまったり、
「理解がない!」と凶弾してしまったりするとね、
その感覚に蓋をすることになっちゃって、
結果的には、「分かったふり」をするしかなくなるんじゃないかな、と、思うんです。
 
 
それは、「理解」とは呼べない。
目指そうとしてるものの逆でしょう。
我慢しろ、って言ってるのと同じになっちゃう。
 
 

たとえばこの山陽電車のポスターみたいに、ほんの少しでも情報(≒知識や経験のもと)が増えると、
 
「お、おお…」
 
からの、
 
「さよか。」
 
への変換精度、速度が高まる。
 

「なんや、よう自分には理解できへんけど、そんな人もおるんやな。(そんなもんなんやな。)。」
 
で、ええんちゃうかな。それが本当の意味での理解なのかも。
 

 
「理解し合う」、「わかりあう」、というと、聞こえはいい。

よく考えてみたらね、家族や仲間でさえ、そんなにわかり合って暮らしてないでしょう。いわんや、たまたま電車に乗り合わせた人、をや。
  


理解し合おう、わかり合おうとすると、間合いをつめなきゃいけなくなる。膝を突き合わせて話さなきゃいけない、イメージ。
 
  
それを世の中みんなで・・・なんて、息が詰まる。そんなの。
 
 
もっと、のりしろ部分みたいな、余白があっていいと思うんです。
 
さらに言えば、理解できなくても、嫌いでも、いい。
「みんな仲良く理解しあって」って、よく考えてみたら、気持ち悪いでしょう。
 
嫌いな人同士、理解し合えない人同士、が、同じ社会の住民として、
お互いいい感じに距離を保ちつつ、
それぞれ平穏に暮らす方が、理にかなっています。

今までは、完全に壁があって、壁のこっちとあっちで分断されていたわけです。そりゃ、おかしな話。
だからその壁(≒障害)を取り除いていきましょう、という流れになっていますよね。世の中、変われば変わるもんです。まだまだだけど、確かに変わってきてる。
とて、その壁を取り除く=全員が手を繋ぐ、ではない。


ちょっと離れて眺めてたら、わかることもあるかもしれないし。 
その時に、ちょっと離れたところで、余白の部分に、

「なんや、そういうことなんか。そんなもんなんやな。」
という情報があるといいよね、と。
 
 
お互い補填しあうような。
 
 

それにね、それでもやっぱり耐えかねる時は、そっと別の車両に移るとか、距離をおくとかでも、全然悪いことじゃないと思っています。
  
   
どっちかだけが、一方的に我慢を強いられる状況は、かならず歪みが大きくなっていく。
 
  
その点、子供は特に、ベースになる状況判断や予測の材料となる知識や経験がまだ少ないわけで、自分以外はすべて予測不可能な存在からスタートしてる。
 

だから最初そこをうまくフォローしちゃえば、
 
「さよか、そんなもんなんやな。」
 
で、済ませちゃうし、それでも我慢できなかったら、文句もいうし喧嘩にもなる。
「そんなもん。」の先は、人と人として、フラットですから。
「理解する」としたら、そのフラットなところじゃなきゃ、ねぇ。
 

それで良いと思うなぁ。とても。
 



 


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