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企業市民の不安な世界

(1995年、ボストン大学大学院への留学から帰った直後に書いた文章です)

1.似ているかな?、米国の民族社会と日本の産業社会

最近気づいたのだが、米国の多民族社会の現状を日本の産業社会の状況にあてはめるとなかなか面白い。もちろん学問的な分析とはいえないが、日本の産業社会がいかに変容していくかについて、米国の多民族社会のアナロジーで考えることもできそうである。

多民族国家である米国には、公民権法という立派な法律が存在しており、公式には人種差別は存在しないのであるが、誰もそんな能天気なことを信じていない。同様、多数の産業や組織で構成される日本の産業社会でも、建前は“職業に貴賎なし”とされるが、今どき子供でもこれを信じるほど素直ではない。人種による差別や職種による貴賎は当然のように存在するのである。

ちなみに予備知識であるが、現在の米国の人種構成は、白人70%強、黒人8%、ヒスパニックが12%、アジア系が8%程度となっている。またこの議論はあくまで通念的な一般論であり、差別を擁護する意図はない。

アフリカ系アメリカ人と“政治的に正しく”区分される黒人階層は、もともと南部の“温情的な白人家庭の寛大な保護”にあったものを“不幸にも”農奴から解放された後は貧困に苦しむ小作農として働くこととなり、その後の米国農業の機械化に伴い、その主な生活圏を中西部等の大工場での下層労働者に移していった。比例費として計算される労働者の部分である。しかしこの20年の産業空洞化やハイテク化に伴い、彼ら教育のない労働力の需要は極端に減っており、彼らの多くは都市スラムで職にあぶれている。奴隷として強制連行されルーツもたどれない個人からできた彼らの社会は、概して相互の信頼関係が薄く非常に殺伐としたものである。また黒人階層には円満な家庭というものが少なく、子弟に対する教育投資を軽視する傾向がある。

米国の黒人に相当する地位は、日本の産業社会では正社員としての保護を受けない期間工、また最下層の肉体労働者が占めている。また零細下請企業も“温情的で家族的な企業群”に保護され指導されるべき階層である。教育のない非熟練な彼らも企業社会に隷属する限り、生存に必要最低限な“寛大な保護”が受けられる。また彼らの低収入や過酷な労働条件は、彼ら自身の低能さと無教育を考えれば当然である。彼らも概して組織化されることのない、個人が分断された社会に生きている。

米国でアジア系の立場に相当する立場は、日本の産業社会では女性が占めていると言える。国民の半数である女性も産業社会の中では未だに少数民族である。

鉄道建設等で大量動員された中国系は“本来の得意分野”を活かしアジアコミュニティの中でレストラン等の低級サービス業に従事していたが、近年は成長産業の分野に大挙進出しており、ハイテク産業の中心地シリコンバレーなど台湾の海外県とさえ言われる。師弟の教育に熱心なアジア系の学歴は優れて高く、また能力主義の米国には、教育さえあれば人種を問わず対等に処遇すべしという通念がある。全人口の4%の中国系がMITの学生の25%を占める。よくMIT構内では、立派で賢そうな中国系子息が、年老い苦労を重ねた両親を誇らしげに案内している姿をみることができる。

日本でも女性は従来“本来の資質と能力にふさわしい”家庭内労働を専らとし、さらに贅沢にも自由時間まで与えられていた。日本の産業社会では、女性の職務分担は「か弱き彼女らを保護」するためにも、最底辺の事務労働に限定されるべきとされる。しかし彼女らについても高学歴化の波は進んでおり、性別では表面上差別できない企業社会では“女性総合職”という矛盾に満ちた「名誉白人」職も出現している。確かに現時点では、伝統的な企業社会に彼女らの居場所がないことは事実であるが、新しい知識産業においてはこれまで以上に彼女らが活躍する分野が広がるであろう。

店員などに多いヒスパニックの立場は、強いて言えば日本の産業社会ではその15%を占める自営業者に相当するだろう。彼らはともに資本化されておらず経営形態も家族主義的である。実際、ヒスパニックは米国社会に強固な根を張っている。商店員の会話の多くはスペイン語であるし、LAなどの大都市は完全にスペイン語・英語併記である。また彼らのカトリック的家族主義の社会は、黒人の分断された社会とは異なり、貧しいながら比較的安定している。

日本の産業社会においても、家族経営の自営業者が、いわば社会の毛細血管として、末端の流通を担っている。また彼らは最下層の労働者と異なり、地域の中で比較的安定した社会を形成している点でも、ヒスパニックと似た部分がある。

なおヒスパニックの中には少なからぬ不法移民も存在する。百万人以上と言われる彼らの立場は、日本産業社会でもそのまま(不法)外国人労働者に相当する。米国でも日本でも、不法移民は豊かな国に憧れて忍び込んだ点では同じであり、ともに国家の保護を受けられない彼らは、産業社会の最底辺の労働力として重宝される。

にもかかわらず、彼らが黒人のように抗議の声をあげないのは、ガルブレイズの指摘する通り、彼らが属していた“貧しい国の豊かな状態”より“豊かな国の最低の状態”がまだましであるからであろう。日本に不法滞在する多くの「高学歴の」イラン人(彼らの多くは博士号を持つ国内では数少ない中産階級である)にとっても、自国は日本に夢を抱かせるに足る絶望的な状況ということであろう。

白人の立場に相当するのは、日本では会社員、つまり何らかの企業に属している75%の階層である。彼らこそ米国の“正しき中産階級”また“日本の正しき産業社会”を構成してきた中核階級である。

なお日本では「労働者」といっても正社員である限り企業社会の一員とみなされ、また単純労働力ではなく提案や改善活動の主体となることが要請される。これは明らかに米国の定義でいうと、固定費扱される“正社員=ホワイトカラー”の世界である。この意味でも日本の会社員は、職種に関わらず「白」い世界と対応できる。また米国の伝統的な大企業社会というのも、どうのこうの言って白人かつ男社会であることは否定できない。

白人の世界も比較的無視できるようになったとはいえ、日本の企業社会の大企業・中企業・下請中小企業という序列に似た、英国系・ゲルマン系・ラテン系・スラブ系という序列があった。しかし、現在の白人の世界では、民族による序列でなく、経済力の差による厳然たる住み分けができている。

2.復習・日本的人事管理

話題を変える。「仕事」をここで付加価値を付ける作業と定義するならば、日本の伝統的組織で求められることは「仕事」でなく「献身」である。個人にとって重要なことは「組織」にともかくおり「献身」の姿勢をいかなる時にもアピールすることである。

献身する社員というのは会社にとって非常に有用であった。田舎の工場に骨を埋めQC活動に精を出す技術者、単純な事務処理をこよなく愛する事務職員、果てしない品質改善に明け暮れる研究者、徹夜の突貫作業を指揮する現場監督というものは、会社の宝であった。これらの単純労働は「献身」つまり拘束される自由時間に応じて、個人差はあれそれなりに成果が上がる性質のものである。頭脳より忍耐力が必要とされる世界では、履き潰した靴の数と開拓した顧客の数は比例するわけである。「巨人の星」など現代ではお笑いであるが、高度成長時代とは「根性」に価値があった時代でもあった。

その献身に対して、会社は短期的な実績報酬でなく、長期的な地位と権力で個人に報いてきた。いわゆる年功序列である。会社員というものは、賎しくも「出世」という2文字が頭にあるならば、みな月末の給与のために働くのでなく、将来の地位と権力とそれに付随する特典、さらにはより多い退職金や世間に名の通った関連会社への天下りを目指して働くのである。

「会社人間」化は当然である。献身を諦めた社員には、将来の栄光への道は閉ざされる。会社に支払う現在の自己犠牲の大きさと、反対給付される将来の地位と権力を考えれば、後者の期待値のほうが圧倒的に大きいのである。献身が評価される世界では、有能なマイホームパパより、役立たずの会社人間ほうが、優位に立つのは当然とみなされる。成果に関係なく“苦労した分”だけ報われるのである。

「終身雇用」も当然の権利である。成功報酬を最後に貰う構造になっているならば、途中で競争を降りることは決定的に不利である。何が何でも最後まで生残ることが、勝者の第一条件である。終身雇用とは“温情溢れる人間的な”面のみではなく、労働市場がインフレに傾きやすい高度成長期に社員を安価につなぎ止め、後々企業が成長してから余裕をもって成果を配当できる財務的に非常に有利な面を持つ。

逆に日本的経営にも終身雇用は欠かせない。定年まで働き、また働けることを信じている従業員は、長期的視野で問題を解決しようとする。工程を熟知した労働者は、自身の解雇を恐れることなく合理化に協力し改善活動に取組むし、管理職も短期の利益より長期の改善を目指す。また他社に移る心配のない従業員には、安心して教育投資をし、社内情報を共有できる。

また日本的な組織運営は、社員相互の緊密な人間関係に基づいた効率的なチームワークを得意とする。仕事のみに基づいた人間関係では組織は円滑には機能しない。インフォーマルグループの育成、そして管理が不可欠である。言換えれば全人格的な献身、つまり拘束が要求されるわけである。会社内サークルや長時間の付合い残業、また休日を潰しての宴会旅行やゴルフなどは、別に社員の自発的趣味ではなく、組織内のソフトな情報交換を活発に行うために積極的に推奨されてきた。時として会社がそのような私的関係に全面介入するのもそのためである。

米国ビジネスエリートにも同じく長時間の拘束や頻繁なネットワーキングが奨励されるが、日本企業の場合はそれが一般社員にまで要求される特徴がある。社宅の家庭生活まで会社の監視下に置かれる会社員に私生活は存在しない。日本企業がチームワークに強いはずである。また長期的に人間集団を安定化させる一括採用と終身雇用は、チームワークを強化する点で有効に機能する。日本が達成した高度成長とは、優秀な官僚による指導鞭撻によるものではなく、普通の社員を一生懸命に働かせるシステムの賜であった。

社内で評価される献身というのは、職務に対する習熟以上に全人格的なものである。会社組織倫理への全面的従属、部下に対する万全な指導、自身の「人格的」研鑽が必須である。帰宅途中には英語学校に寄り、休日は運動会の練習に嬉々として参加しなければならない。それでも差別化できない場合は上司への胡麻擂りでさえ評価される。別に彼らの能力自体を揶揄するつもりはない。実際に出世した人達というのは、部下に対する統率力に優れ話がうまく魅力的である場合が多い。“社畜”とは人格ではなく制度への適応である。

社員の適応力と将来の可能性を高めるため、日本の会社は社員の職務や勤務地を当然の如く頻繁に替える。しかし万能のジェネラリストたる社員に対しては、どんな僻地に飛ばしても、どんな閑職に廻しても同じ基本給を保証する必要がある。そのため年功序列の属人給、つまりあくまで暫定的な「仕事」ではなく不変な「人」に対する給与体系、が採用される。どこに配属されてようと同期は対等な“はず”であり、各人は次のより良い異動に向けてその地での職務を全うすべく頑張るわけである。

社員の異動と評価の巨大権力を集中保持する人事部が、個別の事例や成果に応じた細かい評価を運用することは実質不可能であり、彼らに対しては、成果に応じた「公平」な基準というより全体に対する「平等」な基準が適用される。年功序列や学歴主義、また中学生の校則チェックのような減点評価や、社内行事への参加等に対する加点評価がその例である。

入社時点の選別で一流大学卒の“ブランド”で知的能力の品質保証をされた優秀な人材は、組織内のOJTによりソフト面での能力を磨かれる。大組織では幹部候補社員の歩留りは問題ではない。組織の管理にはオーバーヘッドが必要であり、無能な管理職でもそれなりの居場所があった。数少ない優秀な人材は、同期と横並びのあまり面白くはないであろう下積み期間を10年以上続け、そのうち“発掘”されることを期待する。最終的には“いい大学を出ていい会社に入って一生懸命働けばいい生活が保証される”はずだからである。

実績をあげた者も窓際で遊んでいる者も、原則的に同期横並びで評価されるこの世界では、前者が不満を持つ場面も当然ながらあるわけだが、ガルブレイズの指摘する通り、個々のパイが拡大している局面においては、全体の分配の不平等は表面化しない。第一、悲喜劇が発生するのは将来の配分の時なのである。

管理職とは業務分担ではなくてご褒美という証拠に、おそらく日本特有の役職名である「部長付部長」や「相談役」また、部下のいない名目管理職等があげられる。部下がなかろうが仕事がなかろうが、過去の実績を持つ社員には、やはり部長や役員の処遇で報いなければならない。社会的な面子はきちんとたてるのが暗黙の契約というものであろう。経営学的には“首切”と等しい「出向」にしても、片道切符にせよ“本籍は親会社”という社員の自尊心は満足させている。“人に優しい日本的経営”の見本である。

なお、貢献に対し後払いという体制の下では、中途解雇は暗黙の契約に対する裏切りである。“解雇”は経営上の問題ではなく反社会的行為と見なされる。また、需要も供給もないところに中途退職者に対する転職市場は形成されない。若年層はともかく、成果配分期にあたる管理職に対する求人は極めて例外的である。

日本企業また構成員に特有な“忠誠心”や“勤勉”も、このような初期条件を与えれば自然発生する訳である。初期条件の設定には儒教的な文化的背景が必要ではあるとしても、経済の問題を文化で説明しようというのはどだい無理である。

このような日本的経営システムは、長い経済成長の間、実にうまく機能した。しかし見込み違いがあった。オイルショックを乗越え80年代には無限に成長すると思われていた世界最強の日本企業は、90年代にいきなり競争力を弱めてしまった。また、高齢化の進む社会また企業では、成功報酬にあずかる対象が禁止的に多くなってきた。成功報酬である管理職のポストどころか、年棒制の美名の元での賃金の総額抑制、さらには個人の資産である年金の切崩しさえ真面目に検討される事態である。

3.駆逐される管理職

米国の状況に話を戻す。

80年代のバブリーなレーガンの時代、米国では敵対的企業買収による企業解体の嵐が吹き荒れた。これらの無慈悲な経済活動は、後にその多くが犯罪者として裁かれた億万長者を生みだしたと同時に、多くの米国産業を空洞化させ、多くの米国市民から仕事を奪っていった。

90年代に入り、この嵐も静まり、米国の産業界も謙虚に日本の成功を見習いつつ力を回復し、労働環境も好転すると思われた矢先に、しかしとんでもない次の革命が待っていた。電子コミュニケーション革命とリエンジニアリング革命である。

現在の大組織は、官僚組織とかマトリックス組織とか名付けられているが、いずれにせよ組織構造の要所要所に管理職というものが配置され、情報の流れを管理している。つまり、現場の情報を上に伝えたり握り潰したり、仕事を指示したり捻曲げたり、関連部門に情報を取次いだり隠したりする役割である。組織の最終的な生産物が例えば自動車だとしても、組織を実際に動かすのは何をいつどのように作るかという「情報」であり、この流れを統制するのが管理職である。管理職の力の源泉とは、個人の事務能力や技術力ではなく、部下や隣の組織から入る情報を独占し、必要に応じて指示を部下に流す機能にある。

実際に、管理職の仕事時間の7割は電話や会議という情報伝達の時間が占めている。伝統的な階層機構では総人員の10-20%は意志伝達という重要ではあるが直接付加価値のない仕事に従事している。ちなみに、この管理職10-20%という数字は、成長過程での企業での平均的な数値であり、この点でも、若い時分での貢献を管理職の時代に受取るというサイクルは、高度成長期の日本ではうまく機能していたといえる。

ここで電子メールが登場する。電子メールという新しいツールをうまく使えばコミュニケーション密度を従来の10倍以上に高めることができる。これにより、従来組織間を上下に移動していた意思伝達形態が、管理階層を介さない直接担当者同志の横の移動で済むようになり、またメールの関連者全員への公開により情報を皆で共有できる。階層の上下による情報伝達の遅滞や欠落もなく、素早い意思伝達ができるようになるわけである。

現在の経営学で注目を集めているフラットなグループ協同組織では、構成員をネットワークで密結合し、意志決定も現場のレベルに移行し、非常に素早い情報交換や決定を可能とする。従来の稟議や会議の殆どは電子メールで置換えられ、飛交う情報は関係者全員で共有され、皆が目を通し提案することができる。各個人が組織の活動全般に精通できるわけである。この電子ネットワークを外部のインタネットと相互乗入れすることにより、外部組織との協同作業や意見交換もほとんど社内と同じ感覚で行うことができる。

また、組織運営に必要な情報とは必ずしも仕事の話には限らない。組織が人間の集合体である限り、その円滑な運営には構成員相互の良好な人間関係が不可欠である。直接業務と関係ない日々の付合い、つまり日常的な会話や子供の誕生日の御祝なども、組織に必要不可欠な「ソフトな情報」である。古典的情報システムが専ら売上日報や会計業務のような「ハードな情報」のみを扱ったのに対し、新しい情報インフラである電子メールの上には組織に必要な「ソフトな情報」活動の全てを載せることができる。

電話や直接対面などの1対1の会話が基本となった従来型コミュニケーションの世界では、構成員同志の緊密な関係は長時間の全人格的拘束なしには実現できない。しかし敷居の低い電子メールの上では、多対多のコミュニケーションをいとも簡単に実現できる。電子メールに慣れると、会議など馬鹿馬鹿しくてやっていられないし、電話でさえ実に面倒な通信手段ということを実感できる。ジャンクメールへの不満はよく聞くが、会社内といえども人間同志のコミュニケーションの殆どが不要不急のものであることを考えると、これはむしろ当然であろう。使い方にもよるが、電子メールは組織の情報伝達の効率を、そのハードさソフトさに関わらず、圧倒的に改善する。

このように関係者全員が直接コミュニケーションできてしまう情報インフラの出現した世界では、情報の流れを握っている専任者、つまり管理職の必要性は極端に低くなる。また組織のオーバーヘッドを省いた素早い意志伝達は「速度と変化」を最重視する現代の経営に不可欠な要素である。日本的経営における参加型合意形成の粋とされた“稟議システム”も、意思伝達にかかる時間が嫌われ、多くの企業で廃止されるか電子メールに変りつつある。

メールが主流になった世界では、電子メールにアクセスできない人は、組織で何が起っているのが全然わからないまま放置されてしまう。今まで全ての情報と人間関係を掌握していた管理職が、社内のネットワークから落ちこぼれかねないのである。

さらに続いて登場したのがリエンジニアリング革命である。リエンジニアリングとは、組織を横断した業務の再構築であり、業務組織の部門を超えた統合や現場への権限委譲により、従来と同じ業務を圧倒的に少ない人数で迅速に処理することを目指すものである。

例えば会社で機械を買うことを考える。一般的な会社では、購買部門が各部の注文票を前向きな検討のうえ発注し、内部の書類の山を盥回し検収し、業者からの複雑怪奇な書式を突合わし支払するという、厳かな事務手続が必要である。しかしある会社で、形骸化した承認手続を廃止し購買データベースの構築により内部の書類を全廃したところ、事務処理の速度は大幅に改善し、購買部門の人数は1/5に削減できた。リエンジニアリングの最も有名な事例である。

購買部門は付加価値を生まない間接部門の代表例であり、その合理化は組織全体にとっては大きな利益となる。しかし、ここで合理化されようとしている間接部門こそが、管理階層の牙城である。彼らは現場から取上げた実権を官僚組織内の些末かつ膨大な許認可手続に還元することで、間接的に会社を支配してきた。つまりリエンジニアリングとは、業務権限という管理階層の「聖域」にメスを入れる作業であり、権益を牛耳っていた社内官僚組織への解体宣言と等しい。

間接部門が大きい鈍重な伝統的な大組織は、意志決定に時間がかかる割に顧客の動向が決定者に伝わらないという問題を抱えている。伝統的な大企業が「速度と変化」を最重視する現代ビジネスの世界に生残るには、情報技術を駆使した効率的な組織に変身しなければならない。

実際に、90年代の経営革命を経験した米国企業では、企業業績が軒並改善しているのに対し、必要とする人員が少なくなっている。フラットな組織や業務を横断する改革の目標とは、より管理階層の少ない組織である。多くの大企業は、史上最高の売上げと利益を更新しつつ、同時に1万人単位で社員、とりわけ管理職、をレイオフをしているのである。

リストラ・レイオフというと、日本の感覚では“社内失業中の窓際族の出向”程度のイメージしかないが、そもそも米国企業には“窓際族”という人種は存在しない。今回のレイオフでは、昨日までバリバリと仕事に励んでいた中間管理職という階層が、そっくりそのまま“不要”となってしまったのである。

管理階層とは現在ではオーバーヘッドの代名詞である。今さらパソコンを必死に習ってももう遅いかもしれない。今までは一生懸命会社に尽くせば得られるはずのものであった管理職という階層自体、今まさに消滅しつつあるからである。

4. 伝統的な「管理職」から、新しい「マネージャ」へ

しかし、ここで従来型の管理階層がなくなるといっても、組織の運営者がいらなくなるわけではない。ここでは手垢にまみれた管理職という用語に替えて、専門に組織を運営する役割を担う者に対し「マネージャ」という用語を使う。

マネージャに要求される基本能力とは、分析力や綜合判断力といういわゆる“頭の良さ”と、組織を運営するのに必要な人間関係を築き、価値や目標を伝えることにより組織を指導するソフト面での能力である。ここまでは伝統的な上級管理職の理想像と変らない。異なる点は、彼らが次第に「専門職」化している点である。

全能のジェネラリストたること期待されてきた伝統的管理職が絶滅に瀕しているのに対し、高学歴の専門職の活躍の場は増している。バブル期の華やかさはないが金融/財務・情報/通信/メディア・法務/経営の専門職は、企業のリストラに比例して需要が逆に増加している。

ここで求められている専門職とは、従来の「パワーエリート」という言葉でイメージされる伝統的な総合管理者ではない。つまり、新しい企業でのエリート像は、時間をかけて大企業で内部昇進した管理職という階層ではなく、若くして経営の専門教育を受けたマネージャ、つまり“専門の経営職”である。

古き佳き30年前、大企業の伝統的な管理職が広範な専門知識を要求されることは殆どなかった。要求されたのは、高度な企画力でもマーケティングの知識でも情報化に対する先見の明でもなく、企業内での広範な人脈と幅広い職務経験、そして人間関係の調整能力つまりある種の人格であった。管理職の権力基盤とは直接的に人脈ネットワークであった。管理職はあくまで内部ジェネラリストとして養成され、人事や営業や工場管理を転々とし、会社の内部力学に精通した“人格者”が「パワーエリート」として権力への階段を昇っていった。

伝統的な会社組織で女性が出世への道を閉ざされていたのは、決して彼女らが無能であったからではない。伝統的な会社組織では「会社クラブ」、つまり価値観と文化を共有できる白人男性主体の社内の支配的グループのメンバでなければ、共に権力を分かちあう仲間と認められなかったのである。深夜に及ぶ“仲良し激務”や、時に人種差別発言や猥談乱れ飛ぶ酒席、また休日を潰してのゴルフに全身を浸すことの難しい女性や非白人とは、あくまで社内ネットワークという権力機構の部外者であったわけである。それに対し、将来を嘱望されたパワーエリートは、技術力や事務処理能力以上に人心掌握と人脈工作にその優秀な能力を傾け、組織での階段を昇っていく。

また、組織の重層的な官僚機構の中で全体の利益が配分される安定した巨大組織では、支配者たるパワーエリート達を取囲んで幾重にも人脈ネットワークが形成される。ボス猿の近くにいればこぼれた餌にもあるつけるわけである。社内の派閥や人事異動のような重大案件のみならず、有力者とのちょっとした会話、典雅な昼食席次の秩序について彼らは一喜一憂したのである。閉鎖的なクラブ社会での序列に従い権力の恩典が配分されるという点において、彼らの住んでいた世界は、ハプスブルグ家の宮廷貴族やソ連のノーメンクラツーラと変らない。

しかし、現代の資本主義は次第にグローバルし、自由市場での非情な競争もさらに激しさを増している。そのような変化の早い環境に“停滞した市場を寡占支配する安定した大企業”の生残る場所はない。永劫普遍な“権力への階段”は揺らぎつつあるのである。

現代の経営環境は、良い製品を安く作れば売れるという単純な世界でない。マーケティング・製品開発・設計製造・物流・法務・情報システム等、多岐にわたる機能部門が全てリンクしなければ競争優位は保てない。必要とされる経営能力はどんどん高度化しており、一枚岩の優秀なジェネラリスト集団が取仕切れる世界ではなくなりつつある。年金運用の専門知識を彼らジェネラリストに期待することは難しい。マイクロマーケットの分析にはその専門家が必要であり、リエンジニアリングの強行にはそのプロが必要であり、そして経営の全般管理には経営専門のマネージャが要求される。

しかし現代の企業において、経営専門職を内部養成し固定費社員として常時社内に確保するのは極めて非効率である。社内でつぶしの利かない高価な専門職を育成しても常に社内需要があるとは限らないし、外部需要の多い優秀な彼らが社内に留まる保証はない。経営政策作成や市場調査、また情報システム等で、社外専門家の力を借りるコンサルティングやアウトソーシングが流行る訳である。

新しいマネージャ達は、複雑化する経営環境に適応するために、最新の経営学全般を叩込んでおく必要がある。また「情報」が最も重要な経営資源である現代、コンピュータは彼らの必需品である。 マネージャを養成するMBAの討論とは、限られた情報からいかに説得力のある議論を展開するかの闘いであり、分析手法と表計算に裏打された具体的データを提示できなければ勝目はない。視野の狭いコンピュータ専門家がマネージャとして登用されることは稀であるが、コンピュータを駆使したデータ分析が自らできない者にマネージャの地位は無縁である。

ちなみに、私のMBA同期の約半分を占めた英語を母国語としない学生にとって、“英語”は既に必需品である。米国に限らずアジアや欧州でも経済の標準語は英語である。全世界を網羅する国際的な資本活動だけでなく、経営学の流行も最新の技術情報も全て英語で流通する。現在の日本で外国企業や海外工場に無関係でいられる企業は少なく、高度な交渉やマーケット戦略を掌握すべきマネージャが英語を扱えないことは致命的である。実際多くの日本企業で、同じ大学を出たならは、新卒より上級管理職の方が英語が堪能である。

しかしもちろん英語とコンピュータが使えるだけでは、有能な秘書として高給優遇されるのが精々である。繰返すが、マネージャとしての栄達には、個人の資質と高度な専門教育および経験が不可欠である。

こうして不況の最も厳しかった90年頃でも、経営学全般とExcel/Notes/PowerPointの使い方を叩込まれた上位ビジネススクールの口達者な卒業生は、就職難と無縁であった。彼らは即戦力として企業の管理的地位に就き、すぐにマネージャの職責を全うすることが期待された。会社クラブの正会員ではなく専門職が必要とされる時代、女性も非白人も以前ほど差別されることはない。

彼らは会社クラブの仲良しメンバーではないかもしれないが、電子メールを使えば社内情報や顧客企業の情報に効率的にアクセスできる。またMBA同期との電子メール上での情報交換は、彼らの最大の財産である。社内養成された経営者が頼りとする人脈ネットワーク同様に、彼らは経営専門職同志のネットワークに頼れるわけである。従来会社組織への長期に渡る全人格的関与でしか会得できなかった“経営という英知”に、彼らは最も近い存在である。

このような高度な外部教育を受けた専門職を取込む組織と、内部的に養成されたジェネラリスト主体の組織では、評価や昇進の構造も当然異なるものとなる。

伝統的な会社組織では、個人が“彼はいくら組織に献身しているか”で評価されるのに対し、専門職中心の組織では“彼/彼女はいくら稼げるか”が常に問題とされる。外部市場のない社内ジェネラリストの客観評価が困難なのに対し、専門職のアウトプットは「専門能力市場」で価格が決る。弁護士やタレントの世界と同様、個人の業績とビジネスの需要供給曲線によって年棒が決定される。年数と実績はある程度比例するとはいえ、年功序列とは無縁の世界である。個人に値札が着いているようなものであり、能力が劣る者が安住できる地ではない。

未来永劫の安定を疑わない巨大企業において、地位とは部下または関連会社に対する直接的な支配力を意味し、個人の社会的名声や自己満足を保証するものであった。パワーエリートの競争の原動力は“地位を通じた権力”であり、金銭的な報酬は、当然のごとく付随するが、あくまで二次的なものである。また大企業の保護的システムの中で適応進化した彼らが、仮に収入増が期待できても、より自由競争的な新興企業で活躍することは稀である。

それに対し、マネージャの活躍舞台である現代企業は常に激しい自由競争に晒されており、その恒常的な支配は現実的ではない。彼らのインセンティブは単純に“能力を通じた高収入”である。年功序列を期待できるどころか、加齢による能力低下や将来の市場動向を考えれば、同じ職種に留まることによる長期的な高収入の保証はない。彼らは高等教育等の自己投資に励む一方で、投資の早期回収にも怠りない。また彼らは機会があれば仕事の、または金銭的な、満足を求めてベンチャを興すことを厭わない。

5.「パワーホワイト」と「新・プアホワイト」への分化

MBAの授業では、教授が実際の経営者を呼んで講演させることがある。メリルリンチやアンダーセンが来るときには、現金にも多量の学生がわんさと押し寄せる。メーカーはここでも実に人気がない。世界最大のガラスメーカーであるコーニング社の重役が来たときも、教室は閑散としていた。しかし、その講義は非常に印象的であった。

彼は言った。あらゆる面で世界最強であった米国の製造業は、50年代からの長い繁栄に慢心し、80年代には全く競争力がなくなってしまった。高い給与水準を維持できないので、労働者の質は次第に悪くなり、優秀なエンジニアには見向きもされない。昔この会社は高校生の憧れであったが、現在採用できる労働者の半分は英語が話せない。

それでも彼は頑張っていた。「私の第一の仕事は彼らを勇気づけることだ。彼らは学校で落ちこぼれ、まともな職業にも恵まれず、最後にここに応募してきた者達だ。彼らの人生とは常に負けることだった。まず彼らに希望を与えることだ。英語を教え、基礎の工学を教え、初めての成功を味あわせることが必要だ。私は彼らに交わり、簡単なスペイン語と汚い隠語を覚え、彼らと場末の酒場に行くことを愛している」

まあこんな感動的な講義が、高い鼻をひくつかせた生意気なMBAの学生に受入れられる筈がない。さんざん意地悪な質問責めにあって彼は往生していた。さらに教授が「この中で製造業に進む気概のある者はいないか」と聞いたとき、手をあげたのは(隣の日本人に突っつかれて渋々あげた)私一人で、とても気まずい雰囲気が流れた。

MBAプログラムは元来、鉄鋼産業や自動車産業の財務・労務管理に必要な人材を供給する目的で設立されたのであるが、米国の重厚長大な製造業はほとんど過去の遺物となっている。今さら自ら進んで自動車産業に就職しようという健気な米国人はいない。また多数の労働者を擁する伝統産業もほぼ崩壊し、現在競争力のある半導体やパソコンは、高度に教育された先端技術者の運営する無人工場により生産されている。

現代の米国の成長産業は、既に金融/コンサル・通信/ハイテク・航空/旅行/物流といった新しい分野に移行してしまった。いわゆる「知識産業」である。

現代においては自動車を生産すること自体は何の付加価値も生み出さない。車があり溢れた豊かな世界の付加価値とは、誰が何を欲しがり、どう生産しどこで購買するのが安く、また車で何ができるのかの提案、つまり「知識」なのである。黒のT型フォード、または高品質で安くて燃費の良い車ならともかく価値をもつ良き時代は過ぎ去っている。

また、知識産業を構成する企業群も、伝統的な重たい官僚組織を持つ大企業から、フラットで機動的なネットワーク組織の連携体に移りつつある。その新しい組織でサバイバルできるのは、前述した通り情報技術と高等教育で武装した新しい専門職である。

しかし、米国の伝統的な産業社会は昔から問題を抱えている訳では決してなかった。フォード等による科学的経営革命を経て比類なき競争力をつけた米国産業は、第1次世界大戦での欧州の産業壊滅以来50年以上の長きにわたり世界に君臨した。Made in Americaの高品質と高性能は世界中の憧れであり、無敵の米国産業の繁栄は永久に続くものと思われた。現在労働争議と品質問題に苦しむGMは国家政策を左右する巨大な帝国であったし、実質廃業したUSスチールは倒産のあり得ない世界最強の鉄鋼会社であった。

製品の競争力だけではない。現在大規模なリストラを繰返しているGEやIBMなどは、従業員中心の温情主義的経営と無解雇の伝統を誇る超優良企業として君臨していたし、従業員もその安定した優良大企業で生涯働けることを誇りにしていた。

そしてその時代の大企業の管理職とは、絶大な権限を誇る、社会的にも地位の高い、憧れの的であった。大企業とその系列が経済界全体を牛耳っていた時代、企業城下町の工場長とは、名実ともにその町全体に君臨し数万人を統治下におく領主様であった。

しかし不幸なことに、彼らは現在単にリストラの対象としてしか認識されていない。

現在の産業社会は次第に2極分化しつつあり、この動きはレーガン以後の新自由主義のもと更に加速されている。過去に強く正しいアメリカの標準市民であった「高卒・大工場勤務・専業主婦と子供2人・一戸建と車2台」という階層は絶滅して久しい。高卒はおろか、近年はどうでもいい大学でMBAを取ったくらいではまともな就職の機会はない。リストラの吹き荒れる企業社会の中で、過去聖域であったホワイトカラーは現在最も不安定な「不安階層」である。

崩壊した繊維産業や鉄鋼業で肉体労働に従事する白人労働者、また産業化にとり残され小規模小売業や小規模農業にしがみつく白人一般を称して「プアホワイト」と呼ぶ。そして現在は、過去米国の伝統的な価値を継承してきたホワイトカラーに代表される中流階級も、その多くが“新しいプアホワイト”として転落しつつある。彼らにとって、子供の頃に夢を見たアメリカンドリームは既に終焉している。

ここでは便宜的に、没落しつつある伝統的な企業での一般職ホワイトカラーを「新・プアホワイト」と呼び、活躍の場面を広げている高学歴の専門職の連中を「パワーホワイト」と呼ぶこととする。ここで“新・プアホワイト”の職種として高度な教育を要求されないあらゆる事務職と技術職が当てはまり、例えば経理や営業窓口等の一般事務職、秘書やスチュワーデス等の一般サービス職、またプログラマや工程管理者などの下級技術者がその典型となる。

古典的なプアホワイトの唯一のリーゾンデーテルとは、自らが“米国の正統たるべき白人”であるこである。しかし、この人種差による階層分類は既に米国の現状とはそぐわない。つまり人種格差より経済格差のほうが、社会階層の区分としてより重要になっている。低収入階層という点でプアホワイトは、彼らの忌嫌うヒスパニックや低級アジア系と同類のカテゴリーに属する。

理性的に考えれば、増税による利益の再分配、また福祉の充実や就業支援やなどは、多くのプアホワイトにとって利する所も多い筈である。しかし“誇高い白人”は賎しくも政府の援助を受けてはいけないのである。政府の援助の対象は“賎しい移民や救いがたい黒人”であり、自分たちが受益者になる可能性を認めることは、彼らにとっては死刑宣告に等しい。割と陽気で“アッケラカのカー”としている黒人の浮浪者の中で、たまにまぎれた白人の浮浪者は例外なく死人の目つきをしている。

企業社会の正統たるべき“新・プアホワイト”についても同様なことがいえる。

高度な専門教育を受けた若いパワーホワイトが一気にマネージャの地位を得る一方で、そのような機会のなかった“新・プアホワイト”達が営々と到達目標としていた企業内管理職の席は、消滅し奪われていく。高卒や無名大学卒の労働力についてはさらに労働条件は悪化しており、パートタイマーや単純労働以外に殆ど職を得られる状況にない。既に米国のトラック運転手の殆どは学士様である。

企業社会の中産階級から転落した“新・プアホワイト”は怒りと不安をたぎらせている。しかし彼らの怒りは、産業構造の変化や新しい企業支配階級に向けられることはない。悪いのは高い教育もコンピュータを駆使する技術もない自分たちではない。悪いのは数少ない就業の機会を自分達と争う“不当に優遇された”黒人やアジア系なのであり、自分達を搾取する“倫理的でない”大きな政府なのである。キリスト教と自由主義は常に正しく、正しい自由競争の元なら自分達は、当然勝者となるはずである。こうしてプアホワイトは、一見論理矛盾してみえるが、共和党を喜んで支持し、無慈悲な自由競争の中でさらに自らの没落を早めていくのである。

ここでも過去の地位から脱落していく者が、自分より「劣るべき者」を徹底的に差別し糾弾する構造が見られる。米国では人種差別は極めて下劣と考えられており、それを表だって表明することは社会的には許されない。ブキャナンなどの下品な煽動政治家が人気を集めるのは、日本の下劣なオヤジが当選するのと異なり、彼らのモラルが崩壊しつつあることを示している。事態は深刻である。

プアホワイトが人種攻撃に走りがちなのに対し、パワーホワイトは比較的人種差に寛容である。彼らの自信は“自分が白人”であるという点ではなく、自分たちが“パワー”を掴んでいるという点である。経済の世界では人種差は決定要因ではない。高学歴に支えられ成長著しい“パワーアジア”構成員は、既にパワーホワイトと同じ階層に属している。逆に彼らパワーホワイトが親近感を抱くのは無教育で田舎臭い貧乏なプアホワイトでなく、優秀で洗練された“パワーアジア”であろう。

しかしこの感覚は、旧来のパワーエリートが支配者として、保護者的なケインズ風リベラリストの立場に立ったのとは、おそらく異なるものである。パワーホワイトはあくまで“新自由主義の勝者同志”として、人種を越えた親近感をパワーアジアに持つのであろう。これはちょうど、出世競争から落ちこぼれた無能なサラリーマンがむしろ女性総合職に敵意を示すのと同じであろう。エリートコースにある勝者の方が、女性など同志と思っているかどうかまた職場における性差別の実態が分っているかどうかはともかくとして、女性総合職に比較的寛容である。

ここでも“強者は強者と連帯し、弱者は弱者を憎む”という構造が発生する。

6.日本産業社会の階層分化

自動車・電機・鉄鋼のような伝統的な基幹産業は、現在厳しい国際競争に晒されている。しかしこれらの企業は、従来の重い組織を現代的に変えることにより、将来的にも力強く生残る力を十分持っている。日本企業の適応力を悲観的に見ることはない。

ここでの組織形態の変更とは大規模なリストラを直接意味するものではない。人数を半減させるか給与を半減させるかの選択ならば、おそらく日本の企業は後者を選択するであろう。解雇が社会的死を意味する日本の産業社会では、大量解雇は大量殺人である。もっとも(小池和男氏の言う)“幻想の終身雇用”に必死に縋っても、永年会社に尽した成功報酬が大幅に削減されるであろうことには変りはない。

組織が拡大している期間は見事に機能した日本的人事管理も、管理階層全体が吹飛びつつある現在、逆作用として機能する。現在の大組織においては、「仕事人間」と今やひたすら会社にしがみつくしか能がない「会社人間」との間には共通する部分はない。今の“会社人間”にとって、直面する最大の課題とは組織内での地位保全であり、間違っても仕事の成果や果敢な挑戦ではない。

“仕事”がたまたま成果をあげたとしても、それはあくまで部門の成果として共有されてしまう。個人の加点評価システムが確立していない割に、失敗した場合の減点基準は数限りない。新製品を開発した優秀な研究者が小さな失敗で飛ばされ、追出した部長が出世する例など、枚挙にいとまない。特に、飛び級はなくとも中途退場はどこにでもある現在のピラミッド組織の崩壊過程においては、正しい行動とはひたすら組織に埋没することである。現在の大組織で仕事の成果をあげることなど、当の個人には百害あって一利もない。

また、情報革命のもと管理階層が吹飛びつつある現在、伝統的な管理職育成法はあまりに非効率である。大組織というのは、変化に対して本能的かつ徹底的に抵抗する。成長の止った大組織には、終身雇用の管理職が永久にのさばり、有能な人材も有能なマネージャになる前に保守化してしまう。また、組織が順当な昇進を保証していた時代には、個人もそれに忠誠心で応えていた。しかし組織が雇用や収入に対し責任をとりきれない状況で、社員に忠誠心という“モラル”を期待するのは愚かである。

ご褒美で管理職になった人間が、実際に解雇されてしまったら最期である。比較的若く能力のある人間ならばともかく、現在の需要と供給のバランスの下、彼らには外食産業でアルバイトをする以上の市場価値はない。

管理職ユニオン等の組織活動も、おそらく個々の闘争では多くの勝利を勝取るであろうが、結局頼りになるとは到底思えない。問題は、単に個人に対する不当な解雇や差別ではない。管理職という仕事自体が世界中で吹飛びつつあるのである。市場で需要のない哀れな彼らには、結局何の力もない。

このような変化は社員にとっても、また日本の産業全体にとっても悲劇である。

日経連の「新時代における日本的経営」の中で提唱されている「新しい人事政策」も、同じ状況に対する経営側からの危機意識の現れであろう。大学卒ホワイトカラーが産業社会構成員の過半数を占めつつある現在、従来通り大学卒の全員を名目なりとも全員管理職候補生として扱うのは愚かしい。

ごく少数の極めて優秀な連中には、今まで通り年功序列と終身雇用で保護し組織の中枢を担う幹部候補として王道を歩いて貰う。別の優秀な連中には、専門職として高給で優遇し、その分会社の利益に貢献して貰う。パワーエリート的な前者とパワーホワイト的な後者の性格の違いがあるとはいえ、これら“優秀な人材”は依然産業社会の枢軸であり、企業戦略を指揮し立案する少数の高級将校と参謀である。

その他一般の学卒社員には“能力に応じて”最適な職務を割当てればいい。組織の管理には昔ほど頭数は要らないし、組織からの自由を求める彼らには、自由労働市場を通じての自己責任がお似合いである。彼ら下士官がそれ以上の出世を望むならば、従来の組織内教育ではなく自己投資が必要である。

年功序列の色濃い伝統的な人事体系と能力給の人事体系がうまく両立するかの疑問は大きいが、この2本建人事制度は概ね変化する産業構造の要求に見合ったものといえる。

現時点で表面化している雇用環境の変化は、ただバブル後の不況と日本社会の高齢化によるものではない。産業構造自体が本質的にグローバル化し知識社会化する過程で発生した産業社会内での階層分化の問題であろう。

社会が知識化するといっても、高等専門教育を受け語学や情報技術を自在に操れる人間は、中高年に限らず若者の世界でも多数派とはなり得ない。どんな世界でも“使える奴”とは少数派である。労働組合が年長者を優先して保護する欧州と単純には比較できないが、近い将来には教育機会にあぶれた若者の失業と荒廃は大きな社会問題となりかねない。

ここで、古い価値観にしがみつき、世を呪い、新興階級をねたみつつ、自分より弱者を糾弾する米国の“新・プアホワイト”の姿は、近い将来の産業の推移に取残されるであろう、日本の大多数の産業社会構成員の姿とだぶって見える。“自分は大企業/中堅企業に勤務している”という一点のみで自分を“中流階級と思いこみたがる”精神構造は、まさに米国の“新・プアホワイト”のものと等しい。

未来予測というのは概して外れるものである。私は別にこの文章とおりのことが将来起るとは必ずしも思わない。しかしながら、米国や欧州で起った産業構造の変化について日本が全く無関係でいられるわけではないだろう。

日本の企業が繁栄を謳歌したのは、高度成長を始めてからせいぜい40年、世界最強と自画自賛するようになってから10年である。米国産業界の繁栄と肩を並べられるほど長い歴史と伝統があるわけではない。そして一国の繁栄が永久に続くことがないことは歴史が教えている。

しかし一方で、高等教育と情報技術で武装したパワーホワイトばかりが競争に生残るわけではなさそうである。外部との熾烈な競争に晒される一部の企業が、多数の没落する“新・プアホワイト”を生み出しつつある一方で、行政組織の官僚機構また金融機関などが安穏と保護されたまま温存されることは目に見えている。社会の寄生虫となりつつある彼らに対し、自己変革を期待するのは愚かである。政治権力を事実上握った階級が既得権を手放すことは断じてあり得ない。革命に対し最も頑強に抵抗するのは“ささやかな幸せ”を守ろうとする既存秩序の末端小市民である。

この世界ではパワーエリートを内部育成する伝統的な日本的人事管理が生残る。利益を永久保証された銀行や永遠不滅の行政機構の構成員の最大の関心は、組織の配当にいかに恒久的に与るかである。利益や効率ましてや自己変革とは無縁の世界では、人事システムの権力配当の側面のみが継承されていく。

それに対し、自由競争に晒され管理階層に廻す原資を確保できない企業が、既に陳腐化した日本的人事管理を継続するならば、パワーエリートならぬ「プアーエリート」を養成しかねない。実際、製造業が政府の絶対保護を失って以来、人知れず製造業と金融業の賃金格差は開いてきた。“鉄は国家なり”と時代錯誤する経団連会長が慌てだしてももう遅い。

例えば現代の特権階級である銀行にいれば、30代の若造が製造業の50代部長以上の給与が得られる。単純な話、私が銀行員であったら、この優雅な待遇は全力で死守するだろうし、子弟にも高い教育を施して甘い汁を吸わせるであろう。“銀行員は厳しい”とぼやきつつ、子弟を“楽な”製造業に就職させる負犬とはしたがらない。そして自らの業務の専門性と厳しさを主張することはあっても、優雅な特権の実態については周囲に堅く口を閉ざすであろう。「貴族」の生態というのはそのようなものである。

一流大学を出て優雅な海外駐在を繰返し長期休暇を楽しむ階層と、田舎の工場で土日も忙しく働く工場労働者の世界は、同じ日本国民ということ以外に共通する部分は全くない。私は不幸にも両方の世界を知っているが、この2つの世界は同じアフリカに住む国連職員とソマリア難民のような差がある。慈悲深い特権階級の視野には落ちこぼれゆく中流階級は入ってこないし、勤勉な下層市民階級にとって特権階級の優雅な生活は想像力の範囲外である。

子弟に高価な高等教育を施すことができる両親は、やはり高価な教育を受けた階層に属する確率が高い。実力があれば出世できる、という幻想は高度成長期と共に終焉した。階層はまた再生産しはじめるのである。

現在の米国産業社会で、健全な中産階級社会が“パワーホワイト”と“新・プアホワイト”に分離しつつあるように、日本の企業社会が従来の“会社員なら皆中流”という1枚岩状態から、固定化した富裕層と比較的貧困層とに階級分化した社会に移行するのは時間の問題かもしれない。

あまり心躍らない未来である。しかし先にも述べたが、日本社会の未来についてこれ以上予測することは無意味であろう。ただ個人的に私は今後の研究対象として、開放的な自由主義国米国より、歴史の深い閉鎖的な中央集権国家フランスに興味を持っている。


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