いろは唄

小さい頃、沢山読み、覚えさせられた。
「いろはにほへと ちりぬるを 
      わかよたれそ つねならぬ 
            うゐの奥山 けふこえて 
                 あさきゆめみし ゑいもせず」

 夏休みも後半の盆明け。お盆は父さんの用事で帰省できなかったため、このイレギュラーな時期に帰省となった。群馬の父の実家へ向かう。ファミリータイプの黒の自動車に乗って奥まった山道を通る。父の父―祖父―は寺の住職で辺境な場所に位置する小さな祠に勤めている。どこにでもありそうな装備の寂れた祠だ。祖父からはたくさんの言い伝えや伝承などを教えてもらった。その中の一つ、この祠よりも山奥に行ってはならない。というものがある。祖父の特に口酸っぱく言うものの一つだ。祖父の家に行くとお参りに行くのが恒例になっている。一度、まだ私が幼い頃お気に入りの鈴を後ろの草むらに落としてしまったことがある。無くしてしまった事で母は泣きじゃくった私を宥めきれないと分かるとおぶい強引に連れ帰った。
 
 翌年、恒例の如くやって来て、自由に遊ぶ事になった私と弟は保護者の目を盗み、川上へ行くついでに祠の近くまでやって来た。ふと去年の鈴を思い出し、ダメ元でも探そうと祠の後ろを覗いた時、後ろを押されたような感覚がした。近くにいたはずの弟はいない。すぐさま探しに行こうとすれば寒気がするようで足がすくんで動かなくなってしまう。すると遠くから弟の声がし、こちらからも答え返すが気付いたそぶりが無く延々と叫び続けている。何度も自分の目の前を通り過ぎるがわからない様子だ。
やはり、弟も何処かおかしい事に気づいたのかもしれない。父ではなく、祖父を呼んできた。とても慌てた様子の祖父は、変な事を呟き始め、祠の中へと入っていく。しかし戻って来、無理だ、もう……様の中へ取り込まれている、と言った。そしていろは唄を唄い、帰っていった。

 何時間経っただろうか。足は痺れ、もう動く気力のない中でどさりと倒れ込んだ。気がつくといつの間にか見慣れた祖父の家だ。身体は動かすことができないが、父あたりが運んでくれたのかもしれない。沈黙の部屋の中にただ自分の声が響く。誰もいない。帰ってくるまでただ、待っていた。

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