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書評 『ハイン 地の果ての祭典』

 ブルース・チャトウィンの2冊の書物『パタゴニア』『パタゴニアふたたび』によって、南米の最南端にある雄大な自然の残るパタゴニアという土地には興味をもっていた。また、チリの映画監督であるパトリシオ・グスマンが撮った『真珠のボタン』という映画のなかで紹介される、ビーグル号でイギリスへ連れて行かれたフエゴ諸島の先住民ジェミー・バトンらの挿話にも関心があった。その映画であつかわれる19世紀後半に起きたセルクナムの大虐殺も、非常に心が痛む歴史である。それで手にとったのが『ハイン 地の果ての祭典』という民族誌の翻訳本であった。

 ホモ・サピエンスの歴史は20万年ほどだといわれるが、およそ6、7万年前に揺籃の地であるアフリカを出発した現生人類は、ヨーロッパや中東やアジアへ移動しながら、ベーリング海峡をわたってアメリカ大陸へと達した。そこから長い時間をかけて南へむかい、人類の旅はついに南米の最南端であるティエラ・デル・フエゴという島々にたどり着く。そこから先は海と南極があるばかりで、それ以上前へは進めなかったのだ。その諸島には古モンゴロイドの遺伝子をもち、狩猟採集や漁労の民であるセルクナム(オナ)、ハウシュ、アラカル(カウェスカー)、ヤマナ(ヤーガン)という4つの先住部族が住んでいた。
 
 西欧の人間で最初にフエゴ諸島の先住民に接触したのは、16世紀はじめのマゼランの艦隊だったとされる。18世紀なかばにはキャプテン・クックが、19世紀前半にはダーウィンが遭遇している。ほぼ裸の状態でグアナコやアザラシの毛皮を身にまとい、遊動生活だったため、すぐに設営と解体が可能な小屋に住んでいたという。このように先住民の歴史について簡単に触れられているのだが、本書があつかうのは先住民の社会や文化や歴史全般ではなく、極端な父権性社会であったセルクナムとハウシュの人びとのあいだで行われていた、若い男たちの通過儀礼の祭りである「ハイン」についてである。
 
 本書のカバーに使われた写真や、マルティン・グシンデが撮影した貴重で豊富な図版によって紹介されるのは、ハイン小屋で、クロケテンと呼ばれる成人候補者たちが遭遇するショールト(精霊)たちの姿である。セルクナムの17歳から20歳の青年たちは、精霊が本当は人間の男たちの扮装であるという重大な秘密を知らされる。そして、長い遠征につれだされて、一人前の狩人になるまで鍛錬される。さまざまな特徴をもつ精霊たちが、女たちや子どもたちが暮らす宿営地に現われては、女たちを叩いたり住宅をこわしたりなどの狼藉をはたらいた。女たちや子どもたちは精霊の存在を信じていて、それを恐れながらも、そのような非日常の祝祭を楽しみにしていたようである。

本書はハインにおけるボディ・ペインティング、戒律、精霊たちが登場する儀礼、それぞれの精霊がもつ神話やキャラクター設定、遊戯や踊りなどを、微に入り細に入り研究し、記録した本格的な民族誌である。それでいて、決して難解な分析におちいることもなく、読み物としてスラスラ読めてしまうから不思議なのだ。

著者のアン・チャップマンはロサンゼルス出身で、メキシコやニューヨークやパリで人類学を学んだあと、1964年の調査隊に加わってからフエゴ諸島のセルクナム、ハウシュ、ヤマナの先住民文化の研究をはじめて、ライフワークにした人類学者とのことだ。「セルクナム族最後の女シャーマン、ロラ・キエプヒャの最晩年、生活を共にし、伝統文化について記録し、数多くの歌を録音した」と本書の紹介にあったので気になっている。まだ邦訳されていない彼女の論文や原著を手にとってみたい、という誘惑につい駆られてしまうのだ。(編集部)

『ハイン 地の果ての祭典』
アン・チャップマン著、大川豪司訳
新評論、2017年

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