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林真理子と白鳥

いつもの辻堂・鳥一番で

「マーカス」という小説を書いて以来、かねがね課題として求められるエッセイなのだが、これが不思議と書けない。すぐ小説になってしまってだめなのだ。そんな時、林真理子氏が日大理事長になった記事を読みながら、彼女の処女作にしてベストセラーが「ルンルンを買っておうちに帰ろう」というエッセイというのを知って、なぜか急に読みたくなりアマゾンに注文して読み始めたのだった。正直言って、林真理子氏の作品を読むのは初めてなのだが、ちょっと衝撃的なのは、通常は曝け出さないような「自分の恥部?」にカテゴライズされる事柄を本当に開けっぴろげにして作品にしているのだ。
女性の持つ見栄、妬み、嫉妬、ゴシップ等、女性雑誌「J J、An An」が好きでありながら、そのモデルになるポジションの女性には猛烈な嫉妬心を懐き、結婚願望からセックスの初体験うわさ話など偽らざる自分の奥深くを垣間見せている。文壇の世界では恐らく語られのが憚れるような事柄をむしろ素材にしてエッセイを書いてあるのだ。ページを捲りつつ思わず、
「すげーなぁ」
と呟かずにはいられなかったのが正直な気持ちだった。
自分の内側にある、妬み、憤り、怒り、虚栄心、そしりなどいっさいの悪い思いを曝け出して作品にするのは自分には出来るだろうか?多分出来ない(少なくとも今は?)など思わず考え込んでしまう。でも小説の中では可能だとは思っている。なぜなら自分の大好きなC.S. ルイスの作品などでも初期のエドマンド、白い魔女、初期のユースチス、アンドルーなどなどが人のもつ内側の罪の性質的な部分を彼らの性格として描写しているのだ。それら影の部分はゲド戦記でははっきりとテーマとして描かれている。でも林真理子氏はそれをエッセイでやってしまったのが恐ろしい。
おそらく世に出ている作家と言われる人々は、何らかの形で限界に挑戦し作品に出ていてそれが評価されたのかと思わずにはいられなかった。つまり何らかのブレイクスルーを作品を通して表現したとも言えるかもしれない。
翻って今まで何も書いたことの無い人が書き出すと、あたりさわりのない綺麗な事柄なり世界なりを書いてしまい、其の割には細かな文書テクニックにとても気を使っているのかなと、思わず自戒の意味も込めて考えてしまった。

そしてもう一つ正宗白鳥、これは最近父が亡くなった時に共に「火を熾す」に寄稿している善さんが、白鳥も彼自身の父の死を作品に書いてますよ!と言い、
「そうなんだぁ」
と返したものの、正宗白鳥という名前を聞くのも初めてで、ちょっと調べると無教会派のクリスチャンだったらしく(あるいはその影響を受けた?)、小林秀雄の評論ではかなり有名らしい。この辺りは少し前の時代の人であれば誰でも知っていたのかもしれない。僕なんかは本自体は好きだったが、いわゆる文学少年でもなく(まあ文学少年の定義もわかりませんが)文学の評論とか興味が湧くこともなかった。
それなのに、なぜかいきなり小説など書き始め、しかもある一定のレベルの小説なり文学の素地を持つ人が自分の作品を読んで唸ってしまったので、調子に乗っているのだが。それでもいわゆる「私小説」という分野になぜか抵抗があってあまり書こうという気になれなかった。何というか妙に狭苦しくて自由が無いように思え、つまり自分の個人的経験内だけの世界を描いて、それを読んで面白い?とついつい思ってしまう。
しかし、誰でも自分の親の死を経験するのは普通一回か二回しか無いわけで、何も書かなければいずれ時間が忘却の彼方へとその肉親との別れも連れ去ってしまうのは間違いなかったので兎に角、白鳥の本を買って読みだした。
結局白鳥のおかげで余計な肩の力が抜けることになった。「今年の春」は短編の作品でもあり読みやすかったのだが、そこに描写される正宗の父と父を取り巻く家族・親族その地方社会。でもそこには直接死を訴えている場面はなかったのが自分にとっては、
ああ、これでもよいのだ。
という安堵というか納得になり改めて「帰宅」という作品を書く力になった。なんというか、書く側に暗黙的な決まりがあるとそれが枷になって筆の力を弱めるみたいで、まずは自分の内にある制限を取っ払うのが大事らしかった。
なによりも、一応「私」小説という範疇に入る小説なのに「私」の感じたことや「私」の説明、「私」の心のやり取りが出てこない。今まで自分が頑なに思いそして定義していたものが、あっけなく取り払われてしまった。
又、完結・簡素な表現ながら父の描写に必要十分な言葉で打ち出す筆の力にもはっとさせられた。自分だったらもっとダラダラと説明文で繋げてしまうであろうなと、つくづくレベルに違いを思い知らされた。
同時に、「今年の春」で死に向かう白鳥の父の姿や過程には自分の父と共通する部分もあり、自分も含めて人の死の過程を改めて確認することとなった。
ただ、白鳥は自身の父の死の過程は確かに描写しているが、それを訴えたかったわけではないみたいで、むしろその過程で見え隠れする彼の他者との関係性から、自身の父がどういう者、どういう存在でそれに対する自らの積み重なった感情を訴えたかったのではないだろうか。

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