『インヴェンションとシンフォニア』、アルド・チッコリーニの米粒は美味しそうだということについて
「この人が弾く曲はなんでも好きになってしまいそうだ」と思うピアニストに最近出会った。CDを買った。
そのピアニストにピアノを教えたうちのひとりが、アルド・チッコリーニという方だった。(間違っていたらすみません。)
Apple Musicを使っているので早速、「アルド・チッコリーニ」で検索。
高校生のときに練習していた、J・S・バッハ『インヴェンションとシンフォニア』があった。
中途半端に私はピアノをやめた。
この曲がきける有り難さを私はきちんと実感できていないが、サブスクできけていいのか?
サブスクというものには曲がいくらでもある。
聴き放題っていいのか?
話が逸れた。私はサブスクのおかげでこの方が弾くこのアルバム、この曲に出会えた。事実として。
幸い高校生のときに使っていた『インヴェンションとシンフォニア』の楽譜(本)は残していた。
楽譜本をぱらぱらめくり、ひととおり懐かしがり、一番短い日数で合格をもらった「インヴェンション8番」を上に貼った。
私は「シンフォニア」にはたどり着かず、「インヴェンション15番」をなんとか終えて高校を卒業した。
私にピアノを教えてくださった恩師は、「若いうちに曲をたくさんききなさい。」という旨を生徒によくおっしゃっていた。
その教えを私は結局守れず、今になってやっと、作品をきくことやみることができる嬉しさを感じている。
高校生当時、この『インヴェンションとシンフォニア』の練習は正直だるくてきつかった。
「インヴェンション1番」は好きだったが、全体的になんか暗い曲ばっかりだという印象しかなかった。
上に貼った「インヴェンション8番」は、明るかった。
明るくて希望的というよりも、弾いていると心からあほに戻れた。
あほであることはもう周りにバレていると思いながらも、認めることができない。
あほであってはいけないという強迫観念のようなものを持ちながら、自分があほであることを必死に隠しながら、この曲を弾いて完全にあほに戻っていた。
この曲を練習していた当時、手本となるCD等の音源はきいていなかった。
今更ながらアルド・チッコリーニが弾くこの曲をきく。
当たり前だが自分が弾いていた「インヴェンション8番」とは全く別の曲にきこえる。
一つ一つ確認するように、間違えないように弾いていた当時の自分、そして当時の自分のそういうところを残す今の自分のことも騙すような。
仮に「これは8番じゃない別の曲だよ」と言われれば、「そうなんですね」ときっと私は口で言い、頭では「似てる気がするけどな」と思い、それで終了。
とはならないだろうけど、上に貼った8番をきいていると、「お前は今まで何をしていた?(何をしている?)」と口々に言う音たちが整列し、規則正しく笑っているように思える。
でもそんな被害妄想的な感想も実はどうでも良くて。
きいたときの気分でしかなくて。
何を思っても良くて。
数日前この曲をきいたときに、私はメモを残している。
アルド・チッコリーニが弾くこの曲をきくことについて、「つやつやに炊けた美味しい県産米を一粒一粒数えるような作業だ。」
今、直前の文字列を打った私は、「どちらにしても私はあほである」と確信したので続ける。
この曲は4分の3拍子なのでひとくち3拍子で噛み砕けばいいのだが、騙されて4拍子で噛み砕いてしまったり細かく6拍子で噛み砕いてしまったりする。
ひと粒の米の粒が立ちすぎている。譜面を追いかけるだけでは騙される。
曲というより音だからだと思う。
速く噛むもよし、遅く噛むもよし。
音を追いかけて楽しければ。
よく噛んで食べることが大事だと思った。
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