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生きててごめんなさいからの幸せでごめんあそばせ

ちょっとしたことに大げさに反応してしまう癖は50年たっても抜けていない。例えばただ単に予想外にエレベターから人が出てきただけだったり、洗濯干しているときにだれかに不意に声をかけられた時に、わっ!と大きな声を出して驚いてしまう。
この「不意の出来事」に病的に驚いてしまうのだ。
おそらくそれは、幼いころ父が酒を飲むと暴れたり、大声で私たちを怒鳴りつけたり、母を殴ったり、ちゃぶ台がひっくり返ったり、お皿が飛んで行ってがちゃーんと割れたり、空気が突然変わって危険な目に合うという経験を日常的にしていたからだと思う。
常にびくっとしてしまうのは身体が覚えてしまった反応だ。

酒を飲まなければ優しい父で、いろんなことを教えてくれた物知りだったし、泳ぎを教えてくれたのも父だった。

当時、そんな言葉はなかったが、機能不全家庭で育った、所謂「アダルトチルドレン」の定義に私はすべてあてはまった。
空気を読んで人の顔色を見て動くし、大きな音には敏感に反応するのはそんな経験からだった。ちょっと前に流行った「繊細さん」ではない。だけど繊細な子供ではあった。
アダルトチルドレンが持ちやすい、無価値観(親を助けられない)をもち、さらに、当時には名もなかったADHD気性が、宿題もできない、忘れ物の多いダメな自分を苦しめ続けた。でも受験勉強も全くできない状態だったが高校は進学校に受かった。
家で勉強するということが、まったくと言っていいほどできなかった。
小学校の3年生くらいから宿題ができなくなった。学校の休み時間に何とか宿題を済ます、そんな状態だった。でも別に成績は悪くなかったし、塾なんてものの存在すら知らなかった。
学校にさえ行って授業に出ていれば何とかなった小学校、中学校とは違い高校ではかなり落ちこぼれた。もちろん大学受験は全くダメだった。

そう、あの宿題ができなくなったころ、父親に私は要らない子だったと言われたのだった。子供のいない親戚に養子に出すはずだったと。

要らない子と言われた心の傷は、実はとてもフカカッタ。
大人になるまで忘れていたけど。
要らない子ではいられないので必死に親の役に立つようお手伝いをして必要な子になりたいと思った。
けなげな小学生だった私は、家業の農業の忙しい時期には
3年生からキッチンに立ち、家族みんなの夕飯を料理した。
小さいころから母を手伝い、見よう見まねでできるようになっていた。

中学生になれば、自分への努力はできないし、顔はブスだし、自分なんか大嫌いで、なんで生きてるんだろうと思った。毎日ダメな自分との闘いで疲れて「生きててごめんなさい」と、日記に書いたのはそのころだ。

家では父親が暴れて、学校ではいじめにもあったし、
私はいつも周りを気にして、常に疲れていた。

好きな子ができると、妄想に逃げられるので半ば恋愛依存症のようでもあった。漫画を読んで妄想に浸る間は幸せでいられた。
短大に受かって東京に出るまでの生活は結構、精神的にも辛かったことが
多かったが、他人からは「明るい元気な子」と皆に認識されていた。

若いころに持て余していた生きづらさは、
劣等感と無価値観でいっぱいだったからだと今ならいえる。
自分の劣等感が自分を痛め続けた。

なぜこんなに、上手く生きられないのか?
人並に幸せになりたいんだ。
自暴自棄をやめたい。
マイナス百から這い上がりたい!!
せめてゼロ地点まで這い上がりたい。
そう日記に書いたのは20歳のころだった。

あれから30年以上たつ。
今、私は国際結婚をして、子供も二人授かって育てあげ、欧州に住んでいる。優しい夫に愛されて、子供たちにも大切にされて、義理の両親にも実家の家族にも大切にされている。父は亡くなったが、父の葬式は父の死を悼む多くの人に見送られ、とても良い葬式だった。

先日イタリア旅行に行って、素敵なレストランでおいしいワインと食事を頂いているとき、なんとも幸福な境地に至った
夫にひたすら感謝して、幸せをかみめた。

生きていてごめんなさい。
生きててなんになるの?
と苦しんでいたあの頃のわたしに、
あの時の苦しみがあったから
たくさんの学びがあったから
今の幸せがあるよ。
頑張って生きてくれてありがとうと言ってあげたいとふと思った。

もちろん、結婚して30年の間、不機嫌な出来事は多々あった。
でもそれは自分が巻き起こしたともいえる。
たくさん書くことはある。

でも、この数年の幸せ感はハンパなくて、毎日神様ありがとお~!と心の中で感謝している。
しかしながら、今を絶頂とは言わない。上りつめたのなら、降りなくてはならないから。
幸せの波に漂ってる。そんな感じだ。
この先もそんな波に漂いながら、「幸せでごめんあそばせ」と笑っていこうと思う。



 

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