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「許す」ということ

おかげさまで、ありがとうございます。
勾玉セラピスト・認定講師の西坂かよです。

勾玉セラピーでは、潜在意識の岩戸を開くためにベースとなる大切な考え方があります。それは、「自分を許し愛する」ということです。

自分を許してない
認めてない
愛せていない
OKを出せてない
つまり、自己承認ができてない状態では、岩戸は開かないんです。

日本の神話でも、弟のスーちゃん(スサノヲノミコト)がやんちゃしまくるから岩戸に引きこもったアマやん(天照大御神)も、「弟がこうなったのは私のせいだー、私の監督不行き届きだー」って自分を責めて否定しちゃったから、岩戸隠れしたわけです。

この「自分を許し愛する」、突き詰めていくと、とにかくどんな自分もどんな他人も許す、ということになります。

落ち込んでる自分も許す。
ついカッとなって怒鳴っちゃった自分も許す。
自分の問題なのに私に当たってくる相手も許す。

そして、許した上で、わたしはどうしたいか、を考える。
ただただ、この繰り返し。
だけどこれがとっても難しいんです。
だから、勾玉の秘儀をつかって、少しずつ少しずつ、許す練習をしています。

「許す」と「懺悔する」

話はそれますが。
私はカトリックです。俗にいうクリスチャン。

勾玉セラピーは、宗教ではありません。
しいていうなら、日本人としての縦糸を繋ぐべく、日本の「現代につづく神話としての神道」を大切にしています。

勾玉セラピーの「自分を許し愛する」とカトリックの間で、共通点を発見しました。

カトリックの考え方は、すごく雑に言うと
「人間は神じゃないから、どうしても罪を犯しちゃう生き物。だからイエスキリスト(神の子供として地球に派遣されてきた)が、人間の罪を全部背負っといたから、もう大丈夫だよ!!」です。

だから、悪いことしてもごめんなさいすればOK。その代わり、ごめんなさいはこまめにしようね、というスタンスです(日曜の教会のミサとか、懺悔とか)。

これって「自分を許す」と似てるな、と思いました。大きく違う点とすれば、自分で許すんじゃなくて、神さまやイエスさまに許してもらう所かな。

聖書の中の有名なお話のひとつに、「マグダラのマリア」があります。このマリアさんは、いわゆる「聖母マリア様」とは別のマリアさんです。
このマリアさんは娼婦・もしくは不倫を犯した人として、街中の人から石を投げつけられます。そこに現れたイエス様が「石を投げてもいいですよ、ただし、自分は生まれてから一度も罪を犯したことがないぞ!という人だけね」というと、誰も投げる人がいなくなります。そして、イエス様が「あなたの罪は許された」とマリアさんに伝える、というお話です。人は人を裁けない、ということです。

「人は罪深いんです、そして人は人を裁けない、だから懺悔して悔い改めて生きていくしかないんです」というスタンスは、勾玉セラピーの「自分を許し愛する」と比べるととても暗いトーンに感じます。

でも、人間は生きてもいいんだ、どんな人間にも生きるチャンスと権利はあるんだ、だから前を向いて生きていきなさい、というメッセージは、共通しているように感じました。

自分を許し愛する、って考えたことありますか?

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