抱っこのバトンは…
おやすみなさい、の前に「ぎゅーっ」っと。今日も大きくなったね、と子どもの匂いを吸い込んで、全身で子どもの全身を感じる。いい一日だったね、と心から思える時間。そう、その日がどんな一日であったとしても。
え?これは毎日毎晩?…はい。
え?お子さん小さいんでしょう?…いえ、中学生の男の子2人と、小6の女の子です。
足りないものはなに?
子どもたちが揃って小学校に通い始めた頃、なにかが違う、なにか足りない、と感じた時期があった。手が、腕が、胸元が、頬がさびしい。どうしてさびしいのか、なにが足りないのか、だいぶ悩んで気が付いた。
子どもたちに触れていない。
ちゃんと歩けるようになった。転ばなくなった。手をつながなくても迷子にならなくなった。だから、抱いて歩かないし、抱き上げないし、手をつながなくなった。強くなったなあ。大きくなったなあ。頼れるようになったなあ。
でも、私はさびしい。
だから、私は子どもたちに宣言した。「寝る前はぎゅーっと抱っこするよー」勝手に決まりを作った。さびしいから、触れたいから、彼らの匂いを、存在を全身で感じたいから。
小学生だった子どもたちは大喜びで膝に乗ってきた。首に腕をからませて、頬を寄せて、むぎゅーっと。その瞬間、私は満たされた。あーこれ、これがほしかったんです。
いつまで?
いつまで「おやすみ抱っこ」するの?と子どもたちに聞かれたことがある。聞かれて私は困った。考えていなかったから。
いつまでしてほしいの?と聞き返したら、「いつまででも!」と。そりゃ、今はそうかもしれないよ?でもね、あなたたちは大きくなるの。大きくなったら反抗期とか、もっと大事な人ができるとか、あるでしょう?
その瞬間、思い出したことがあった。まるでその日その場に立ち戻ったように、濃厚に。
あの日、彼女が言ったこと
大学時代のある昼、私は独立していた文学部のキャンパスに潜り込んで、ベンチで買ったお弁当を食べていた。やがて隣のベンチに女子学生が二人やってきて、お弁当を広げながら話し始めた。
ひとりが、最近彼氏と同棲を始めたらしい。それを聞いたもう一方がいろいろと質問を重ねている。「トイレとか、歯磨きとか恥ずかしくない?」とか。「彼氏の目の前でご飯食べるの、気にならない?」とか。
そんな話の隙間に同棲している方が話したこと。
「あのね、思うんだけど。ひとって、小さい頃、お母さんとかお父さんに抱っこしてもらうでしょ?で、大きくなるとだんだんしなくなって。でも、抱っこってほんとうはいつでもだれでも必要なことで、だから、大きくなったら、大人になったら、彼氏とか旦那さんとかに抱っこしてもらうんじゃないかなあ」
このくだりが印象的過ぎて、その前後を私は覚えていない。
「抱っこってほんとうはいつでもだれでも必要なことで」
「いつでもだれでも必要なこと」
「必要なこと」
いつまででも
私は子どもたちにもう一度宣言した。「あなたたちを、私の代わりに抱っこしてくれる人が現れるまで、抱っこするよー!」
中学生の自分を覚えている。高校生の自分を覚えている。大学の頃の孤独を覚えている。
高校に入学する四月に、私は生まれて初めて「姉」になった。ちいさなちいさな弟。どれほど抱っこしてもし足りない弟。あのやわらかい腕、おなか、頬。あのやわらかさとあたたかさにどれほど支えられたか。
弟がいなければ、彼を抱っこした記憶がなければ、私は大学時代の強烈な孤独に完敗してしまっただろう。
あの孤独を、子どもたちには味わわせたくない。もしも孤独が必要なことだとしても、支えなしで戦わせてはならない。抱っこの記憶を途切れさせてはならない。遠いものにしてはダメ。
抱っこのバトン
私は子どもたちを抱っこする。途切れることなく、子どもたちそれぞれの「大切なだれか」が彼らを抱きしめてくれるまで、抱っこのバトンを握りしめて。彼らの「大切なだれか」に、確かにバトンを渡すまで。
そして、私自身の抱っこのバトンは、夫が持っている。確かにしっかりと、あたたかく、しあわせの色で。
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