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性暴力をめぐる社会の中の「境界」を、私たちは越えられるのか?~希望のキーワードは対話と想像力。

普段何気なく話す身近なひととの間にも、思いがけない立場の違いや経験の違いを見て「境界」を感じることがあります。その時に感じる「届かない」という思いや「きっと伝わらない、わかりあえない」という諦め。

でも、その「境界」の向こう側へ手を伸ばし続けているのが、ライターの小川たまかさんです。日々の取材や活動の中で見えてくる「境界」について、そしてそれらの「境界」を越えるためのヒントを話してくれました。

10月21日(日)、北品川で行われたボーダーランド・ブックフェア。テーマは『「そこにある境界」を語る人と本』です。

小川たまかさん
文系大学院卒業後、フリーライターへ。
2008年会社をおこし、取締役に。
2015年頃から性暴力の取材に注力するようになる。
2018年3月に退職し、再びフリーランスへ。
現在、性暴力に関する3つの会(一般社団法人Spring、性暴力と報道対話の会、被害者支援と加害者臨床の対話の会)にスタッフや運営として関わる。
安東嵩史さん(聞き手)
編集者。TISSUE Inc.代表。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画など多数
トーチWebにて「国境線上の蟹」連載中。

<性暴力取材をライフワークにするようになったきっかけ>

安東嵩史さん(以下、安東):ボーダーランド・ブックフェア2日目です。皆さん、朝早くからありがとうございます。2日目第1回のトークゲストは、ライターの小川たまかさんです。

小川たまかさん(以下、小川):よろしくお願いします。

安東:小川さんは今年「「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。」という本を出しておられます。これは小川さんがライフワークにされている性暴力被害の取材の経験をもとに、ご自身が考えたことを書かれた本ですが、今日は取材者としての小川さんに、取材する際、どういう思いで取材相手と向かい合っているのかとか、取材の中で巡る考えとか、そういうことも聞いていこうかなと思います。

まずは、小川さんが今のライフワークにされているようなことに足を踏み入れる、踏み出すきっかけになったことからお聞きできますか。

小川:初めに性暴力のことを取材し始めた時、「怒り」が原動力にあったんですよね。なにに怒っていたかというと、自分も小学校の時からずっと、電車内で痴漢にあっていたんです。痴漢ていうとなんだか軽い被害のように捉えられがちですけど、痴漢と呼ばれる犯罪にも4つの罪名があって…なんか朝からすみません。

①服の上から触る→迷惑防止条例違反
②下着の中に手を入れる、自分の性器を無理やり触らせる→強制わいせつ
③自分の性器を露出して人に見せる→公然わいせつ
④服を切る、体液を服にかける→器物損壊

私は器物損壊以外はされたことがあって、友だちとかはスカート汚された子もいました。

<⑴性暴力被害の周辺にある「境界」>

小川:当時私が高校に通っていたのは1996年から1999年くらいですが、都内に通学していた女の子で被害に遭っていた子、結構多いだろうなって印象なんです。男性でも被害に遭うひと結構いるんですけど、被害の頻度はやはり女性の方が多いので、「なんか見ている世界が違うなー」って思っていました。

安東:男性と女性の間にある「境界」ですね。

小川:他にも「痴漢に遭う女の子は少ない」とか「痴漢よりも痴漢冤罪の方が多い」って思っているひととかもいますね。なんか「見えているものが違うなー」って思います。

2015年に、あるウェブメディアが「女性専用車両は必要ですか?」というアンケートを年代別に女性に対して採っていたんです。全体の7、8割くらいの女性が「必要だ」と答えていて、60代の女性も7割くらいが「必要だ」と答えていた。それに対してその記事を書いていた男性のライターが、「60代も7割必要だと思っているそうです!痴漢も相手を選ぶと思いますけどね(笑)」って書いていたんです。

安東:ひどいですね。

小川:そうなんです。それで、その編集部に電話をかけて、書いたライターさんに話を聞かせてくださいって言ったんです。なんだか「責める」っていうよりも「なんでああいうことを書いちゃうのかな、それまで経験してきたことは、私とどう違うのかな?」って聞いてみたかったんですよね。結局話をすることはできなかったんですが。

安東:そういうことを公にしてしまえるメンタリティーとかいうものが存在している、そこが「境界」ですよね。被害に遭ってしまったひとたちの気持ちよりも、「痴漢被害よりも冤罪の方が多い」と思ってしまうひとたちとの間の。そういうひとたちこそ無関心で知ろうとしないことがあると思いますね。そのあたりのことはどういう風に思いますか?

小川:私がもし男性で、めっちゃ混んでる電車に乗っていても、触られたこととかなかったら、やっぱり想像つかないと思うんですよ。だってどう考えても「異常事態」じゃないですか。満員電車で知らないひとと肩を寄せ合っていることも異常事態ですけど、そこで知らないひとから服の上からでも触られるとか、場合によってはパンツの中に手を入れられるとか、なんかもう、ありえないじゃないですか。やっぱりそういう目に遭ったことがないひとは想像できなくて当たり前なんじゃないかなあと思うんです。

安東:それも「境界」ですねえ。被害に遭ったことのあるひとと、ないひととの

小川:私、男性の被害者のひとにも話を聞いたことがあって、男性でも触られると「固まる」って言っていました。なにが起こったのかわからないし、とっさに抵抗なんてできない、声を出せるひとも少ない。

安東:そんなことが起こるなんて全く思っていない場所で、自分もまたいきなり他人の欲望の対象になり得るってことを思い知らされる、突き付けられるとそうなりますよね。

小川:やばいですよね。そういう「境界」がいろいろあるから、そういうこと書くのは嫌だなあって思っていたんですが、成功体験があったんですよね。大学に入ってから、高校時代の同級生と男子女子混ざってご飯食べた時に、女子側がめっちゃ痴漢の話をしていたんです。そうしたら、男子が「え?痴漢て一瞬お尻を撫でるくらいじゃないの?」って戸惑っていて、サーっと青ざめていく。そういうのを何度か見ました。

あ、ほんとにこのひとたちは女子にとって日常だったことを、なにも知らないんだなって思った。でも、「知らなかった。たいへんだったね」って言ってくれたんですよね。その時、なんていうか、話せばわかり合えるかどうかはわからないけれど、話してみるのって大事だなって思ったんです。そういう経験があるので、あちらが知らないなら、こっち側から見ている景色を知ってほしいなあって、そんな気持ちで記事を書いています。

安東:話すことをためらわないわけではないのでしょうけれど、そういうところから前ほどそういう記事を書くことに、恐れなくなっていったっていう感じでしょうか。「境界」を超えるためには話すこと、知ってもらうことからですね。

<⑵取材の周辺にある「境界」>

安東:痴漢とか性犯罪という、割と大きな言葉でくくられてしまいますけど、個別の体験ひとつひとつは全然違うんですよね。で、なにを思って対処したか、またはできなかったか、そのバリエーションもそれぞれ違う。個々のケースがたくさんあるわけです。それを社会に伝えるために、ひとつひとつの声を拾っていくのが取材で、とても意義のあることだなと思います。

その一方で、当事者にとっては嫌な体験を詳しく聞いていくことの難しさというのがあるじゃないですか。嫌なことを挟んで向き合う、取材をする側と受ける側の間の「境界」みたいなものがあると思うんです。取材ではどうやって被害に遭われたひとたちとコミュニケーションを取っているのか、お伺いしたいです。

小川:基本的には既にもう何回かお会いしたひとから話を聞くことが多いです。そのひとの人柄も、今の状態が被害から結構回復している状態か、周りに支えてくれるひとがいるかとか、確認してから話を聞くようにしています。とにかくそのひとが話したいように話してもらう。そういうスタイルです。

安東:記憶は不確かなものですし、自分を守るために「こうだったことにしよう」と思うこともあるじゃないですか。必ずしも100%事実を述べた証言ではないこともある。それはそれでよしとします?

小川:私の場合は、最近だと過去の被害についての取材が多くて、どちらかというと「こういうことがあった」ってことを伝えるためというよりは、どうやって彼女や彼が回復したのかって言うところを書きたいので、そのひと自身の主観に重点を置いていますね。今後、目的の違う取材の場合はまた違ってくると思うのですが。

安東:本の中でも取材というのは「被害者の体験をえぐる」ことになる行為であると書かれていましたね。その上で書くことの暴力性を自覚して書くと。そこにおいて、その思いと「書く」ことの「境界」はどうやって越えていこうとしているんでしょうか。

小川:私は、私が聞き書きするよりも被害を受けた本人たちが自分で書く方が絶対いいと思っていて。MeTooでもアラーキーを告発したかおりさん、グラビア女優の石川優実さんとか、自分でブログなりnoteなり書かれた。あれに敵うものはないなって。でもいろんな事情で書かないひとたちに取材する。そうであれば、極力そのひとたちから見える景色、見えていた景色を伝わるように書きたいなって思っています。

<⑶性暴力被害当事者をめぐる「境界」>

安東:そうやって書いた記事が世に出て、議論が始まるとしましょう。でも性暴力とか性犯罪は悪いことだって言う前提で話し始めたとして、「なんか違う」、「このひとあかんわ」と思ってしまうようなこともいっぱいあると思うんですよね。

小川:いやーあります、あります。以前、ある議員のひとから集団強姦の加害者の話を聞いたんです。その加害者はあるカラオケで集団強姦が行われていたところに後から行ったと。それで周りの友だちが「あの女は誰とでもやらせるからお前もやっていいよ」って言われて…「彼は、やってしまったのです」って話してくれた議員が気の毒そうに言うんですよ。「それで強姦加害者と言われるのは、かわいそうだと思いませんか?」って。これ、性犯罪の被害者たちがその議員に刑法改正を求める陳情をしていたときのことです。

安東:すごい質問ですね。

小川:あれ?このひと、なにを言っているのかな?って思ったけど、でもやっぱりそういうことを言っているんです。確かに加害者のひとでも例えば正当防衛とか、虐待していた親を殺してしまうとかだと情状酌量の余地はあると思うんですけど。その集団強姦の話は…

安東:選ぶことはできたはずですからね、やらないという選択を。

小川:そうなんですよ。

安東:誘われてやった方が悪いに決まってんだろ!って話ですよね。行われていることの善悪の判断は、見ればつくわけですから。

小川:そういうことはちょくちょくありますね。なんか、悪気がないんですよ。

安東:ないんでしょうね、おそらく。「なんか逆張りしてやろう」みたいな悪意があった方がマシな気がしますけどね

小川:そうそうそう、そうなんですよね、うーん。

安東:これも「境界」ですよね。

小川:あと、テレビとかで、「服装に関係なく性犯罪被害に遭う」といったエビデンスで語っている専門家よりも、一般の感覚のコメンテーターの「とはいえ、短いスカートをはいている女の子の方も悪いですからねえ」みたいな意見がまかり通ってしまう。それが真実のように語られてしまうってことは、性についてと、あと教育についてはよくあるなあって思います。

安東:自分は安全地帯にいるからこそ出てしまう、非常に想像力のない言葉だなあと思いますね。「不都合を押し付けられてきてしまったひとの方が悪い、そこに理由がある」みたいな考え方のひとっていますよね。「この社会も俺たちもまっとうなのに、あいつらが悪い」というような。そういう考えのひとと「境界」を越えた対話をすることは非常に難しいなと思うんですよね。書いていて無力さを感じる時、ないですか?

小川:しょっちゅうあるんですよね。今年なんか、財務事務次官のセクハラの問題とか、麻生さんの発言とか、他にもいろんなMeTooがあったから、あれに全部怒っていくのってすごくしんどくって。まあでも、同じ問題意識を持っているひとが書いてくれるとか、自分が書けない時に書いてくれているのとかに、すごく励まされています。

安東:ひとりだけでやっていると思うと孤独ですしね。怒りで押しつぶされるような感じもしますし。とはいえ、今年は例えば#MeTooのような社会運動をはじめ、そういうものに対抗する動きが割といろんなところで増えているなと思うんですよ。そのこと自体には希望はあるのかなとは思うんですが。

小川:そうですね。

安東:時々「これトレンドに乗った感じでやっているな」というものもありますが、そういうカジュアルなところから入ってくれるひとがいてもいいかなって思いますね。一方で、当事者の声とか、ちゃんとシリアスな話も書いていかなければいけないし。その辺はやっぱり話を聞くひと、声を上げるきっかけになるひとが必要で、声を上げてもらえるような環境を作るひとが必要だなと思います。小川さんの仕事の、一番重要なところかもしれないですね。

小川:そういって頂けると嬉しいです。

安東:そう思いますよ。「当事者は、いわば一番の専門家」だということを、小川さんも書いていたじゃないですか。そのひとたちの声をどうやって拾って、どうやってスピーカーで大きくするか?ですよね。

小川:当事者のひとたちって専門家だし哲学者みたいな感じなんですよ。被害に遭ったことで自分と向き合わなくちゃいけなくて、自分で自分を回復させていかなくちゃならなくて、その過程で家族とぶつかったり、良いカウンセラーと出会えたり出会えなかったり、いろんなことがあるんです。で、刑法や被害者支援のこともすごくよく調べているし。彼女ら彼らの声をちゃんと聴くことは必要です。ただの弱ったかわいそうなひとじゃない。もちろん「弱ったひと」がいるのは当然なんですけど、それとは別の話で。

安東:ただ「弱ったかわいそうなひと」って見方は、相手をひととしてみていなくて、記号として見ている感じですよね。

<⑷性暴力加害者を取り巻く「境界」>

小川:一方で、同じようなレッテルを貼られて社会からはじき出されているのは性犯罪の加害者も同じなんですよね。「あいつら異常者だ」「性犯罪者なんて全員死刑にすればいい」って思われて、一般のひとが目を向けなくなっている。研究もされない。

安東:自分とは違う「あいつらはまっとうな自分とは違う異常な人間だ」という見方ですよね。

小川:でもほんとうはそこら中にいるし、一見普通のひとなのにいないことにされている

安東:家庭ではいいお父さんだったりするかもしれないですもんね。

小川:いや、そうなんですよ。

安東:それが、なにかのはずみに「魔が差す」じゃないですが、突発的、衝動的にそういう行動に出てしまうひともいるわけで。もちろん常習者もいますが。自分はそれをやりたいとも思わないですが、なにかの時に死ぬほど追い詰められて、それでもやらないという自信はない。そういう、自分を見つめる視点も込みで加害者を見るということは必要なのかなと思うんですよね。

小川:そう思っておいた方がいいというか、加害者を理解できるかもしれないですよね。自分もやるかもしれないし。誰でもやる可能性があるよっていう認識があった方が対話しやすくなるし、歯止めにもなる

安東:自分だって加害行為をするかもしれないという感情や恐れみたいなものを、見ないふりをしないでおくことがすごく大事だと思っていて。飲み屋さんでも身近な友だちでも、言える相手がいるっていうことが、抑止力になるんだと思うんですよね。

小川:自分が葛藤しているって言えるのはすごいことですよね。

安東:気負わずにそういうことが言える世の中になっていくといいかなと思います。

<対話と想像力で「境界」を越えることができる?>

安東:「そのひとの話」かもしれないけれど、ほんとうは「自分の話」でもあるかもしれないってことあるじゃないですか。フィクションだけどノンフィクションを超えているってこととか。

小川:ノンフィクションの限界というのは感じる時がありますね。芥川賞の村田紗耶香さんの「地球星人」なんて、ノンフィクションよりもリアルで。性暴力に関するディテールが真実なんですよね。作家の想像力はライターの取材を軽々と超えていくんだなあって、私はこう、心がポッキリしたんですけれど(笑)私のそんな感傷など超えて行く展開で、読後感は清々しく、おもしろい読書体験でした。

安東:すごい作品でしたね。あれに比べたら、「事実を書かなければいけない」というのは、やっぱり限界があるかもしれませんね。

小川:記事のひとつや2つでガラッと世の中が変わるなんてことはないので、地道に書いていこうと思います。誰かには声が届くだろうと信じて

安東:このイベントの主催のひとが「言葉とか映像は遅効性である」という言葉を使っていて。小川さんのこの本だって、30年後ぐらいに古本屋で誰かが見つける、みたいなことが起きるかも。本の場合、こちらはなんにも意図していないのに届くみたいなことがありえますよね。特にWebじゃなくて本になる、形になるってそういうことじゃないですか。

小川:細かいところに細々とでも届けばいいかなって思っています(笑)

安東:そうですね。今日はありがとうございました。

<最後に>

「そこにある」のに見えていない「境界」が、実はたくさんあることを思い知らされた対談でした。「ある」だけでなくて、私自身が「作って」しまっている「境界」の存在もあるかもしれない。そんなことも思いました。

「境界はない」と思うことそのものの危険性。「境界はあちら側が作っている」と思うことの無責任。そして気づかないこと、見ようとしないことの加害性。

でも、それら「境界」を越えていく方法も確かにある。そのための糸口を小川さんと安東さんが示してくれました。

対話と想像力。この2つのキーワードは、「境界」を越え、社会をやわらかく暖かくするためのものでもある。諦めないで進もう。そう思えた日曜日の朝でした。

最後まで読んで頂きありがとうございました。


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