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「ズルい」という言葉を春の空へ帰したい

<目次>
「ズルい」はつらい
「ズルい」はかなしい
「ズルい」の願望
「ズルい」の絶望
「ズルい」の羨望
「ズルい」の押し付け
「ズルい」の無責任
おとなの無自覚に傷つく子どもたち

「ズルい」はつらい

子どもが不登校していると「ズルい」とよく言われる。言われなくても「言いたいんだろうなあ」と思うことは多い。

「学校は休んでいるのにサッカーには来るの?」by少年団仲間
「たまにしか来ないくせに行事は外さないんだね」byクラスメイト
「休んでいても習い事は行くとクラスの子たちに伝えます」by担任の先生
「みんながんばっているのよ」by保健室の先生

面と向かって「〇(子ども)は不登校なの?学校来ないの?ズルいよ?」と玄関先で子どもの同級生に言われた時は、「ズルいって思うってことは、あなたもなにかつらいんだよ。つらかったら休んでいいんだよ」と話した。

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「ずるい」はかなしい

「ズルい」という言葉が、どうしてここまで心をえぐるのか?ずっと考えてきた。子どもたちが集団生活を始めた時から、「今日ね、○○ちゃんに「ズルい」って言われたんだ」と聞かされて以来、ずっと。

「ズルい」は子どもたちの心をえぐって、凍り付かせて、ずっとずっと痛み続ける。

最近わかった。分かったことはこれ↓

「ズルい」=願望+絶望+羨望+押しつけ+無責任

「ズルい」の願望

「ズルい」といわれてまず気づくのは、口にした本人の「自分だってそうしたいのに」という願望。でも厄介なのが、本人が気づいていないこと。無自覚に願っている。

「ズルい」の絶望

願望の次に顔を出すのは、「そうしたかったのにそうさせてもらえない」という絶望。自制や自発的な諦めではなくて、周囲の押し付けでくじかれている場合が多い。

「ズルい」の羨望

次はもう…「お前はいいなあ」という素直な羨ましさ。もうほんとうに、心の底から「いいなあ」と無邪気に羨ましがっていることが多くて切ない。でも本人はまるっきり気づいていないことが多い。

「ズルい」の押し付け

願望も絶望も羨望も本人は無自覚。そして無自覚のままこちらに押し付けられる。「お前のせいだ」といわんばかりに。押し付けていることにも当たり前だけれど、本人はまるっきり気づいていない。

「ズルい」の無責任

これはもう…この言葉そのものの徹底した無責任さ。自覚する気もない、自分でどうにかする気もない、自分で抱える気もない、ただただ「お前のせいだ」という言葉が「ズルい」。

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こんなかなしい言葉が、どうして子どもたちの世界に蔓延しているのか

おとなの無自覚が子どもたちを傷つける

「ズルしちゃだめだよ」と子どもに一度たりとも言わなかったおとなはいるだろうか。私もこの言葉の殺傷力に気づく前は言っていたような気がする。

おとなが子どもに対して「ズルい」と言ってしまったら…おとなの願望を絶望を羨望を押し付けを無責任を、子どもはどう背負うのだろうか。背負えるわけがない。

そして子どもは学習する。

おとなが無自覚に投げつけた重荷と刃で、子どもたちが苦しんでいる。必死に子どもたちが絞り出した言葉がまさに「ズルい」ではない?

おとなは自分の願望に気づいているだろうか。いつかくじかれた希望とその時の悔しさを押し殺してはいないだろうか。羨むほどに願っていることがあることを自覚しているだろうか。

気づいて自分で対処できていたら、「ズルい」なんて言わずに済んだのではないか。

子どもではないおとなは、無自覚ではいけないと思う。自分で気づいて知って抱きしめて癒さなければ。

子どもに無責任に押し付けてはいけない。

そう思った。

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もうすぐ春が来る。「ズルい」なんてかなしい言葉は、春の空へ帰していきたい。


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