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はじめての潮干狩りで「教育のツボ」が身に染みて分かった話

潮干狩りって皆さんやったことあります??

私、生まれて初めてだったんです。

砂浜で、子連れで、ひたすら下向いて
砂掘って、貝集めるやつ。
特に、GWなんて、すごい混んでる中
ひしめき合いながらやるやつ。

貝、持ち帰るのめんどくさそう。
本当に獲れるんかいな。
余って腐ったら臭くなるがな。
スーパーで買えばええがな。

などの声がうっすらとBGMで脳内に流れてはいたものの
7歳の息子が「行ってみたい!!」っとのたまったので
行ってみることにしました。

ちょっと調べると、潮目表なるものがあり
その日の潮の干満のタイミングが場所ごとに予測できている。
それに合わせてあらかじめ動く必要があるらしく
前日から会場のすぐ近くでキャンプをすることに。

計画完璧じゃね?

・・・と前後の話はこのくらいにしてね。

初体験してみての今の気持ち。

結論から言おう。

はっきり言って金額的には元が取れなかった。
3キロ分3,300円を支払って入場したのに
実質1キロしか採れなかった。

「結果のみ」「数値のみ」に着目するとしたら
これは惨敗だ。
行かなきゃよかった、と言わざるを得ない。

でも、トータルの体験として振り返ると
「またやりたいね潮干狩り!!」としか
思ってない自分がいる。

もちろん、若干の「リベンジ」感はある。

でもメインの目的はそこではない。

なんか楽しかった。
なんか豊かだった。
しかも美味しかった。

そして「教育とは」を体感した。

どんな時に
・学ぶことを諦めるのか。
・学ぶ意欲を取り戻すのか。
・その人ならではの取り組み方が活かされるのか。

そんなツボが、たった2時間ほどの滞在で、私と息子の間でさまざまに繰り広げられたのだ。
その結果としての
「採れ高的には惨敗だが、また行ってみたいくらい豊かだった」
という体験になっている。

この感じを記録しておきたいと思いますー!

①どんな時に学ぶことを諦めるのか。

それは、あまりにも、あまりにも、あまりにもあまりにも不利な時。
いや「不利」とは違うかな・・・。
諦めるもなにも「取り組み始めることができない」という状態が一定以上続くと人は、その世界に取り残され、自分の居場所ではないと感じ始める。

そのことが確認できたのは、1歳の次男坊が、早々に「海怖いモード」になった時の私の心境からだ。

訪れた日は、6〜10時が潮干狩り可能な時間帯とされていたが、
初参戦の私が7歳と1歳の息子たちを叩き起こしてなんとか体制整えて潮干狩り場に降り立つことができたのは、7:30を回る頃。

会場はすでに猛者たちで埋め尽くされている。
そして、この日の潮は完全には引かない感じで、砂浜もちょっと先へ行くと海に沈み始める。
かなり沖の方まで出ている猛者の方々は、大きなざるを持ってきていて、ざくっと海底の砂をそこに救いあげてはふるいにかけるような形で貝を集めているっぽい。
でも初心者の我々にそのようなデバイスはもちろんない。

一応、熊手的なものをいくつか。
お砂場用の小さなバケツ。
そしてチケットと共に渡された持ち帰り用の網袋。
これが全て。

つまり、深い方には行けそうもない。
でも、砂浜はもう人で埋め尽くされていて
もはやどこにも貝は残ってないように見える。

6時の開場と同時に到着した猛者の皆様は手前から掘り進め
ザクザクと採ったのち、あの深い方まで進んで今あそこにいるのだろう。

遅れてきた我々が砂浜を今更掘ったところで・・・
何も期待できそうもない・・・

しかし・・・我々だって・・・!
貝が欲しい・・・!

試しにところどころ掘ってみるが、全然出ない。
ちょっとでも深い方へ行きたい私。

でも、潮干狩りに適したデバイスは一つもないくせに
最も潮干狩りに適さないメンバーを私は連れてきている。
それが1ちゃいの可愛い可愛い次男坊くんだ。

父ちゃんはこの時、キャンプ場のチェックアウトのために
荷物の片付けに奔走してくれている。よってこの時はワンオペ。

この1ちゃい君が、普段水遊び大好きにもかかわらず、
いきなり寝起きで抱き抱えられ気づいたら水着きて海の中。
しかもさすがに5月の頭でちと寒い。

ま、泣くわな。

基本的に私にべったりくっついている。

そして7歳の長男氏ではあるが
「潮干狩りやりたい!」「貝とるぞー!」
と勢いだけは素晴らしいものの

「一生懸命掘る」みたいなことがまったく続かない男。
お母さん掘って〜!と言いながら水遊びを楽しんでいるだけ男。

掘る人いないやん。

もう不利というよりスタートラインに立ててない。
3,300円払ったんだけどなー。
無意味だったかなー。
このまま時が過ぎるの無理だ・・・
もうすでに私おケツまでびしょびしょで・・・
貝が採れるなら全然そんなの平気なんだけど
貝取れないのに赤子に抱きつかれて浜辺に立ち尽くしただけで
パンツが海水でびしょびしょなのは嫌だな
心折れるかなもう私一人では無理・・・

「あぁ、こうやって、人は
 自分は埒外の人間なんだって諦めていくんだよね」

無気力の塊となった私はそう感じてた。

もう気合いとか根性とか
「本当にやりたいんだったら諦めないで」
とか何も届かないんだよな。

「潮干狩り」を「学び」に置き換えた場合
文字通りの戦争状態に置かれているとか
家庭内で戦争状態に近い状態
=自分の生存が安全だと思えてない状態
≒絶え間なく他の家族の事情に引っ張られて自由選択が不可能な状態
になっていると子どもは「学ぶこと」に気持ちを向けることができない。
そこにとりあえず存在し生存することに全エネルギーを注ぐしかなかったり
家族のケアなどに絶えず意識が向い自分の学びの好奇心に注がれる分がなかなか残らなかったりする。

そういう時に、それでも生きよう、それでも学ぼうとする魂の声。
それに気づけるかどうか。
それを出せるかどうか。

その分岐点にあるのは・・・

いざという時に頼れる(と自分が思えている)人がいるかどうかだ。

そうだ、頼ろう。テレフォンだ。

キャンプ場の片付け担当している夫に電話をかけた。
数分後、夫が迎えにきた。

1ちゃいを託した。

私は、自由を手に入れた。

もしかしたら、もしかしたら私にも・・・
もう一度、貝を採る喜びが待ってるのかもしれない。

長男と一緒に、ここから歩き出そう、やっとそう思えた瞬間だった。


②どんな時に学ぶ意欲を取り戻すのか。

自由を取り戻した私だったが、有利そうな深い方はやはりいろいろと厳しく、そこそこのあたりをとりあえずしばらく攻めた。

でも、そこそこはそこそこだ。

そこそこ水が満ちていてそこそこ掘りづらいがそこそこ混んでいて

結果は出ない。

掘りづらいから楽しくもないし結果もないし特に旨味がない。

根性で掘り続けるのも大事だけど
脈がないところをただ掘るのはバカとも言う。
やる気が出ない。

もういいや、楽な方行こう、と、水のきてない、しかし、多くの人の手によってすでに採掘済みの砂浜の方へ戻った。

この、砂浜と海のぎりぎり境目、うっすら水がきてるあたりが、絶妙に気持ちがよい。
誰かが掘った穴に溜まった海水が、朝日に照らされポカポカあったまっていて。
そこに浸かりながらの掘り掘りは苦痛でもない。

そして、海水に沈んだ深い方とは違う現象が、この辺りでは見られた。

水の下だと掘ったそばからさらさらと砂は平らになってしまうのだけど、水がほぼ無いところだと、誰かが掘った穴の横に、砂山ができている。

「穴」のところは確実に誰かが掘った後なのだけど
その横の「山」のところはもしかしたらまだ誰も掘ってないところかもしれない。

そういう目星がつけられる状況だったのだ!

「あそこにしよう!」長男がその山の一つに当たりをつけて掘り始めた。
私も乗ってみることにして、そこを掘る。

すると・・・!!!

「出たー!!!」

それまで、すでに小一時間ほどすぎて数個しか見つかってなかったのに、
その「山」を狙った途端に、ドバドバっと10個くらい見つかった。

掘っていって、生きている貝に手が触れた時の
ずっしりとした感じ、重みと厚みを感じる感じ
なぜだか、見る前から「これは生きてる」とわかる感じ。
それが、10個程度連続であらわれる感じ。

これは、なんだろう、とても、豊かで、嬉しくて、楽しい感覚だっ

そして、「穴の隣の山」にならもしかして残っているかも・・・
という予感が的中したことも嬉しい。
なんとなく、息子が選んだ山がいきなり当たったのも嬉しい。

そうかそうか、潮干狩りってのは
「結果的にとれたあさりが美味しいから嬉しい」
ということのためだけにやるものではないんだな。

こういう「当たった!」の喜び
場所が当たったのも嬉しいし
掘った先に手が生きてる貝に当たったのも嬉しい。
そういうのをたくさん体験できるアクティビティ。

「小さな成功体験」「小さな手応え」
それが、あると無いとで、全然違う。

それがあったら、またやりたくなる。
次の「山」を見つけたくなる。
もう一度、掘り当ててみたくなる。
自分の仮説を再検証してみたくなる。

気づいたら、私の潮干狩りスイッチ(学びのやる気スイッチ)は完全に押されていた。

その後、いくつかの「山」を転々と掘っていったが、毎回それが当たるわけじゃない。
掘っても掘っても、ほとんど出なかったね、ということもある。
でも半分くらいは当たり。

ギャンブルもようでもあるが、ある程度規則的な予想もできる。
穴ではなく山の方。
より手付かずな感じがするやつ。
重ねるほど勘も磨かれるのかもしれない。

それに、最初から手付かずの海底を漁るのと違う快感がここにある。

みんなが見過ごしてきた場所をピンポイントで見つけてくまなく採っていく。
みんなが掘った痕跡の力を借りて採っていく。

先達の背中があるからできることだし、先達が見逃したことを今現代(私たちの番)だから実現できる。

そういう、学びが継承されるロマンみたいなものも漂っている。

潮干狩り、深いじゃないか・・・!!

③その人ならではの取り組み方を活かすの大事。

ところで先ほど「長男と一緒に掘った」という感じで書いたけれど
実は長男氏はほとんど「掘ってない」。

彼は、そういう泥臭い根性を必要とすることにはあまり興味がないのだ・・・

「おめーも掘れよ」と内心思ったりもしたけれど
ここでは言わないことにした。

なぜなら彼は彼の方法で、「貝を取り出す」ことにちゃんと成功していたから。

彼の潮干狩りスタイルは「山崩し」。
例の山に海水をかけ、少しずつ溶かしていく。
そこからポロリと落ちてくる貝をゲットする方法だ。

って仰々しく書くほどのことでもないのだけど😅

案外これで、彼なりに貝を集めることができていた。

熊手的なものを右手に持ちガシガシ山を掘り崩し
そのたびに左手を砂の奥まで突っ込んで感触を確かめる・・・
そんな風にして掘っている私に比べると

チャプチャプ水をかけちゃ「ゲット!!」を繰り返している彼のやり方は
てんで生ぬるくチャラい。

でも、間違ってる、わけじゃないし、何より彼はとても楽しそうで嬉しそうだった。

「それが潮干狩りです」と言える方法では無いと思うけど
「それは潮干狩り的にダメです」と言うものでもない。

彼なりに理解したり、彼なりに探究したり、彼なりに結果を出しているわけで、それならそれでいっか。

そう思った。

学びもそうで・・・

どうしても「ここは反復練習一択です」みたいな部分は
何かを学んだり上達する時には完全には避けられないけど

泥臭く根性で練習する、以外のいろんなアプローチも
効果的な時はたくさんあって
そういうのを決まった方法に押し込める必要はない。

むしろ私の中には「掘る」イメージしかなかったけど
「山崩し」でも案外貝が採れることもある
というのは彼がいたから気づけた世界だったなぁ。

④その場にいることがそもそも楽しいことも大事。

しかしこれが、「山」は山でも、本当の山岳地帯だったら、そもそも長男は一緒に来てくれない。

彼は元々、水辺が本当に大好きな人で
貝がとれてもとれなくても、水着で海に入り、ぽちゃぽちゃ砂浜で遊ぶということがめちゃくちゃ楽しくて心から幸せ。

だから、最初からうまくいかなくても
弟がべったり母にくっついてにっちもさっちもいかなくても
彼は彼で楽しくその場に居続けることができた。

その場に居続けたら、なんかの拍子に「こうすればいいんだ」を発見したりする。

そしたら彼なりの方法で取り組む。

でもその場にいなかったら、秘技「山崩し」に出会うチャンスもなかった。

まずは、あぁ楽しいなぁ面白いなぁ好きだなぁ幸せだなぁ。
そう思える環境が学びの手前にあるか。
そこでのんびりと涵養する時間を
「はやく掘れよ!!」と追い立てられたりせずにただ楽しく過ごせる。
そういう安心がそこにあるか。
そして一緒に学びを発見できるフラットな仲間が横にいるか。

潮干狩りのためとかどうでもいいくらい、もう海が好きなんだよ。

そのくらいの何かが、はじまりの環境の中にあるって強いよな。
そのことも改めて実感。


⑤「早く始めた方がいいよ!」は果たして正解か?

そんな一連の体感や気づきの中で、この問いが湧いてくる。

「1個でも多く貝を採る」
「絶対に元をとってやる!」

という目的のためなら・・・
次回はかならず開場時間の前にスタンバイするだろう。

学びに置き換えたら、スポーツや芸事しかり、四則計算や読み書きのお勉強しかり「早ければ早い方が良い」という昨今の風潮がある。

でも、本当にそうなの??
とこの潮干狩りで改めて思った。

とれた貝の量でいったら、3キロもらえるはずだったのに1キロしかとれなかったわけだから残念だった。

でも、もし、最初から、万全を期して、すべて調べ尽くし
完璧なデバイスを持参の上、開場と同時に深い方に陣取れる完璧な布陣で臨んだのだとしたら・・・

今回体感できたような「醍醐味」は一つも発見できなかった可能性が高い。

「学び」の醍醐味。
「体験」の醍醐味。

それは、貝をたくさんとることなのだろうか?
それとも、貝を採るという行為を通じて、世界をより深く知ったり、新しい気づきを得たり、ドットがコネクティングしたり、思いがけない楽しさを得たり、一緒にいる人の新しい魅力を発見したりすること、だろうか?

私にとっては

学ぶってことは、生きるってことは
後者、断然、後者のためにやっている。

だから、「早ければ早い方がいいんだな」という結論だけだと
やっぱりなんだか貧しい感じがする。

それは目的次第で。

「どうしても貝を大量に取りたいんじゃいっ」と思えばそれを選択すればいいけど、それによって、今回のような試行錯誤からの喜びは一つも得られない、何を得て何を失うかを自覚した上で選択したい。

いわんや、子どもの教育に関していったら。

「どうしても〜〜〜〜を超上手にできるようになりたいんじゃいっ」
という強い意志を子ども本人が持ち得ないだろう幼児期に親の一存でそれをやらせるっていうのは、けっこう限られた状況でしか機能しない「成功」かなと思う。

それによって何を得て何を失うのか。
それによって将来子どもが「両親ふざけんなぁぁぁぁぁぁ」となって苦しむかもしれなくても、それでもどうしても、バイオリンを2歳からやってプロを目指して欲しい!
と突き動かされる何かがあるならそれをやったって全然良いと思う。

でも「とりあえず早い方がいいらしいよね」と風潮的なものに乗っかって、追い立てるのは勿体無い。

ざるで海底をごっそり救ってざくざくあさりが採れる潮干狩り。
貝の取れ高的には最高だけど体験的には「そりゃそうだ」でしかない。

どっちでも⚪︎もバツもなく、やりたい方を選ぶ。
自覚して、決めて、選択する
自覚して、決めて、選択する
人生はそれの繰り返し。

それが自分軸ってことだし
それが体験から学ぶってことだし
それができてれば、スキルや知識はどうとでもなるんだよね!

あ〜。
くつろいで、これからも、人生を体験しつくそう。

そう思えた潮干狩りでした。
次は1ちゃいくんも一緒にできるかなー!
彼は「山崩し」タイプなのか「掘り」タイプなのかはたまた新技を編み出すタイプなのか。
楽しみである。


とったあさりはうどんや味噌汁にして美味しくいただきました🎵


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