15歳で信仰決心をした救いの証し

(2014年に書いた証しを、表記を訂正して載せています)
今日は、わたしがどうしてクリスチャンになったのか、クリスチャンになってなにが変わったのかをお話しします。


①信じるまでのこども時代


わたしは15歳の時に、イエスキリストを信じました。
それまで、私はずっと、死んだように生きている子どもでした。
小さい頃にいじめにあってから、わたしは過度に人を恐れ、自分を嫌うようになり、周りの誰にも心を開かなくなりました。
そういう人はどこに行ってもいじめられやすいようで、場所を変え、人を変え、嫌がらせを受けました。
きっかけは、顔や容姿のこととか、家族のこと。
小さい頃は、顔を変えたい、環境を変えたいと願いましたが、小学校高学年の頃には、死んだほうが楽だと思うようになりました。
自分でもこんなに自分のことが嫌いなのに、誰も愛してくれるはずがない。人生に、死んで終わりにする以外の希望はありませんでした。
中学生で心の専門家のサポートを受けるようになっても、それは変わらず、リストカット、オーバードーズ、生きるのが楽になるといわれることは、
正直何でもやりました。
生きる意味ってなんなんだろう。
とりあえずそれを探すのが、わたしの毎日のやり過ごし方でした。
でも、高校生になって、自分の能力の限界が見え、
高校でも、いるだけで悪意をぶつけてくる人も、きゃーきゃー騒ぐ人もいて、自分はいつも同じ「自分」なのに、ジェットコースターのように乱高下する他人の評価に疲れ果てていました。
もう自分がそこに存在していること自体が苦しい、死にたい、と思い詰めたときに、友人が声をかけてくれました。

「わたし、クリスチャンだから、日曜は教会に行くんだよね…」という彼女の一言に、「え、いいなー。私も教会行ってみたい」と言ったことがきっかけで、彼女が連れてきてくれたのが、この東広島めぐみ教会でした。

②イエスキリストとの出会い

神様がこの世界を創られた。だから朝が来て夕が来て、人間や動植物、この世界の秩序がある。
そう教えられたときに、神様がいるとしたら、この神様だなと、なんとなく信じるようになりました。でも、イエスキリストって、十字架ってなんなんだろう。そう思い始めた夏に、わたしは初めて福音を聞きました。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」
聖書の言葉から、わたしが神様に愛されている、と語られました。
わたしは、神様に愛されて創られた。でも、わたしには罪がある。
その罪を持ったままでは、死んでも、神の御国である天国には行けない。
そんなわたしのために、罪のないイエスさまが、
わたしの代わりに十字架にかかって死んで、よみがえってくれたから、
それを信じて、ごめんなさい、ありがとう、と受け取るだけで、
天国に行くことができる。
イエスさまは、わたしを愛しているから、私が信じるか信じないかわからないときに、十字架にかかってくれた。
あなたは、イエスキリストを自分の救い主として信じますか?

そのとき、産まれてそんなに泣いたことはない、というほど、私は泣きました。生まれて初めて、愛されている、と思いました。
わたしのために、命を捨ててくれた人がいる事実を、心で受け止めました。
人を傷つけ、ずっと自分自身を殺そうとしてきたのに、それでも私を愛してくれる方がいる。
わたしは、自分のためには生きていけない。
夢をかなえるためとか、幸せになるために、生きようとは思えない。
でも、このイエスさまのためになら生きていける。
イエスさまが、わたしの生きる意味だ。そう信じました。
それから12年後の今、さらに強く、そう信じています。

③それからも、生きていく

イエスさまを信じて、すぐに心が直ったわけではありません。
というよりも、今でも、自分の心の歪みをみることもあります。
それでも、イエスさまは、私を本当の意味でいのちのある人間に、つくりかえてくださいました。

神に愛されていることを理解できるようになり、
神を愛したいと願うようになり、
人を愛したいと願うようになり、
人から愛されていることが、心でわかるように、変えてくださいました。

人から見たら当たり前のことかもしれないけれど、
わたしは、それが自分に起こっていることは、奇跡だと思っています。
愛されている自分を喜んで、愛してくれる神様と、愛してくれる周りの人に感謝して、毎日しあわせだなぁと思って生きることが、
自分の人生にあるとは思いもしませんでした。
でもそれが、今のわたしの現実です。

聖書に、「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が、一人として滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」という言葉があります。

イエスさまは、私を、裁くためではなく、愛するために来てくださいました。
ボロボロの、なにもできないわたしを、そのままで愛してくださいました。

わたしにとって一番価値があるのは、このイエスさまの愛です。
わたしは生涯、イエスさまのために生きていきたいです。

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