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「王道」という名の「邪道」

こんにちは、カザバヤシです。
本日は、しがないながらにも1アーティストとして最近感じ始めている
違和感を話していこうと思います。

「本来普遍的であるべきのアーティストの感性が、現代でだいぶねじ曲がってきているんじゃないかなぁ」という内容です。


創作活動を続けている方にはもちろんのこと、何かビジネスを展開されている方にも対極的な視座を与えられる内容になると思うのでお付き合いください。

実はでもないんですけど、創作で得られた副産物をYouTubeにupしていたりするんですよね。
遠回しな言い方をしましたが、
要は僕が描いているWEBTOON漫画の「ステルスクラウン-Stealth Clown-」のタイムラプスや作画過程を投稿しているんですね。

元々はタイトルが「葬祭の道化師」というモノクロの横読み漫画だったんですけど、訳ありで改名と縦読みフルカラー漫画へ移行したんですが、それはまぁ置いておいて…

ある動画が時間差で突如伸び、10万再生ほど回ったんです。


それに伴ってチャンネル登録数が一気に増えたのですが、
これが9割近く海外の視聴者さんだったんですね。

漫画ジャンル+言語の要らない作業風景であったことがきっかけだと思いますが、味を占めた僕は下心全開で、それ以降海外向けにシフトしたんです。

タイトルやハッシュタグをフルで英語に変えたりとかですね。
中には動画内の告知文言すらも英語に変えたものもありました。

ここまでは結構よく見る光景だと思うんです。
ところが、ここからが非常に教訓的だったんで本日の記事をまとめました。


海外にシフトしたYouTubeはその後、思ったよりも伸びることは無く最近は再生数も落ち着き、アナリティクスは横ばいなんですね。

ビジネスにおいては市場に合わせて商品を出していくわけであり、マーケティングでは特に「お客様視点」とか言ったりするほど、市場のニーズを敏感に捉えていくことが重要視されていることも理解しています。

…が、ここはすごく重要で
「大衆に理解されようとすると、本質がずれる」気がしました。


お金を落とすのはお客さんでありながら、お客さんに理解されると希薄になる。というのは極めてパラドックスだから興味深いです。

創造は、基本的に表現の衝動によって突き動かされて、自身の内なるヴィジョンをキャンバスとかページ、あるいはスクリーンに注ぎ込みますが、この神聖なプロセスが市場の要求に屈したとき、価値が損なわれてしまうという危険性が隠れているなぁと思います。

より多くの人々にアピールして、商業的成功を得るために、芸術作品を一般大衆の好みに合わせて変更するような大衆迎合。

もっというと、オーディエンスを選ばないこの戦略は短期的には再生数然り、チャンネル登録者の増加につながるかもしれないのですが、最終的には創造性と芸術的誠実さを犠牲にすることになってて、
犠牲にしたことにさえ気づかぬまま過ごすと思うと、怖っ…ってなりますよね。



大衆向けに作品を調整すると、
表現者は自分のビジョンを希釈してしまい、芸術の中核的な要素が欠けてしまうんですね。
独自性、独創性が失われて作品は均一で凡庸なものになってしまいます。

例えば、前にシナリオライティングのお仕事に携わる機会に立ち会ったことがあって、企画書のフォーマットやテンプレートを共有して頂いて事細かく読ませてもらったんですよね。

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