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教えることの本質は学んでほしい内容と生徒の経験を結び付けることにあるーデューイ『民主主義と教育』読書メモ(第14章)

体的・対話的で深い学びを実現するためには、先生の役割は教える人(Teacher)から別のものに変わる必要があると主張されることがある。変わるべき役割の代表格は、導く人(Coach)、繋ぐ人(Coordinator)、滑らかにする人(Facilitator)といったものである。どれであっても先生は「教える」ことから解放されるべきである、という含意がある。

果たして、先生は「教える」ことをやめるべきなのだろうか。「教える」と生徒の主体性が育たなくなるといった言説とともに、しばしば先生が教えることは悪だとされてきた。

そもそも「教える」とは、どのような営みなのだろうか。英語の”Educate”と日本語の「教」では語源が違うため、実は意味するところも正反対だが、そのことは一旦おいておく。私としては「教える」という言葉を捨て去るよりも、むしろその言葉の意味をアップデートした方がいいのではないかと考えている。あるいは、「教育」が「育むために教える」という関係にあると解するならば、「育む」という言葉の復権を狙ってもいいかもしれない。

デューイは、第14章の「教材の本質」で「教える」ことに焦点を当てて考察をしている。デューイの主張はシンプルである。「教える」という行為の本質は「生徒に学んでほしい内容と生徒の経験の両方をよく理解した上で、それを結び合わせること」にある、ということである。

もし教師が、「教えない教育」や「生徒の主体性に任せる」という美名のもとに、「何を学んでほしいのか」という「願い」を語らなくなり、明確化しなくなったら、教育という営みは成立しなくなる。教師は教育に携わる限り、その「願い」を持つという責任から逃げることはできない。むしろ、その願いを引き付けることが、教師の根幹にある。

一方、子どもたちに将来どうなってほしいかは「願い」であり、子どもたちにそのまま押し付けることはできないし、子どもたちの全てが教師の「願った通り」になるとは限らない。デューイが「生徒の経験」を無視してはならないと言うのはこのためである。教師の「願い」に生徒が近付くために、生徒にどのような支援をすればいいのか?は千差万別である。そのため、生徒のことをよく観察し、生徒が教室にどのような経験を持ち込むのかを考えるべきなのである。それゆえ、デューイは専門知識を学ぶ場合であっても専門家の理解している順序で記述することを否定する。

The educator's part in the enterprise of education is to furnish the environment which stimulates responses and directs the learner's course.
教育の営みにおける教師の役割は、学習者の反応を誘起し、学習者の進む方向を導く環境をつくることにある。
To the former, the significance of a knowledge of subject matter, going far beyond the present knowledge of pupils, is to supply definite standards and to reveal to him the possibilities of the crude activities of the immature.
教師にとっては、教材に含まれる知識(これは現在の生徒が持つ知識をはるかに超えている)は、明確な基準を与えてくれて、生徒の未熟な活動がもつ可能性を教えてくれる点で重要である。
When engaged in the direct act of teaching, the instructor needs to have subject matter at his fingers' ends; his attention should be upon the attitude and response of the pupil.
教師が「教える」という行為に直接関わっているとき、教師は教材をよく理解する必要があると同時に、生徒の態度や反応によく注意するべきでもある。


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