かぜかおる (KAZE Kaoru)

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最近の記事

    • 自らの生のスタイルに住まうことのくつろぎ:自分のものとして所有することのできないもの(アガンベン『身体の使用』読書メモ)

      言葉がうまくでてこない。どんなに言い換えてみても、自分の言葉が自分の表現したいものを言い表してしないように感じる。そのような悪戦苦闘は言葉を大切に生きている者であれば誰もが感じることだろう。 アガンベンは、《言語を操って自分のものにすることを務めとしている者たちーー詩人ーー》は《言語を自分のものにすることを追い求めているが、それは同じ程度に自分のものでなくすことでもある》と語っている。言語を自分のものでなくすとは、どういうことか。最も顕著な例は《ある一つの別の神的な原理(ム

      • 『マネジメントの神話』(マシュー・スチュワート

        コンサルティング・ファームが提供している価値は虚構なのか。この問いを考えたい場合は、マシュー・スチュワートの『マネジメントの神話』を読むと良い。マシュー・スチュワートは、オックスフォード大学で哲学の博士号を取得したあと、コンサルティング・ファームに転身した、変わったキャリアをもっている。 それゆえに、「経営(マネジメント)」や「戦略」といった言葉に違った光を投げかけていることが面白い。スチュワートの筆致は「定量的な分析に基づく戦略的なプランニングで、フラットな組織によって価

        • 『戦略の要諦』(リチャード・P・ルメルト)

          ビジネスの世界では「戦略」という言葉が好きな人が多い。しかしほとんどの場合、「戦略」という言葉を使うことで何を言いたいのかは異なっていることがある。本書は「戦略」とは何であるかを語ると同時に、いや、それ以上に「戦略」とは何ではないかを語っている点が興味深い。 戦略はゴール(目標)設定ではない 組織の戦略を立てようと集まった面々が、まずは5年後に達成するゴールを決めようと対話している姿は、誰もが創造できるだろう。  しかし、ルメルトは、明確に戦略は目標とは異なると断言する。戦

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        • 読書日記
          14本
        • デューイ『民主主義と教育』
          5本
        • 時間と決断
          3本
        • 松尾芭蕉
          4本
        • 心理学
          1本
        • 学習・教育
          6本

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          『身体の使用』「インテルメッツォⅠ」(ジョルジョ・アガンベン)

          ジョルジョ・アガンベンの主著『身体の使用』で語られた驚くべき概念である「〈生〉のスタイル」は、ミシェル・フーコーの思考を一つの源泉としている。アガンベンは、「生存の美学」に関するフーコーとアドの対立を描写することをもって「インテルメッツォⅠ」という章をはじめている。アガンベンによれば、両者の違いは「主体は主体の生活と行動にたいして超越したところに位置している」というありふれた考え方からの距離にある。 したがって、私たちは常に自己を創造し続けるというプロセスのなかで生きること

          『身体の使用』「インテルメッツォⅠ」(ジョルジョ・アガンベン)

          資本主義の歴史(ユルゲン・コッカ)

          ユルゲン・コッカは、1941年生まれのドイツ人であり、ドイツ近現代史の大家である。『資本主義の歴史』は、中国とアラビアを前史とした商業資本主義から、現代の金融資本主義まで、「資本主義の通史」をコンパクトにまとめている名著である。読後、印象に残ったのは「資本主義という概念は、相違を表す言葉として始まった」という命題と、「資本主義に代わるオルタナティブないが、資本主義には多様なバージョンがありうる」というコッカの明快な結論である。 それでは、現代の我々が暮らす日本の資本主義とは

          資本主義の歴史(ユルゲン・コッカ)

          スタイルの存在論

          ジョルジョ・アガンベンは『身体の使用』の中で、私たちの人生を「スタイル(様態)」の観点から再構成しようとしている。私たちは、自らの人生をスタイル(様態)の観点から考えることに慣れてはいない。私たちが獲得してきた語彙(および概念)は、私たちが何かであること(例えば日本人であること)、あるいは私たちが何かを成すこと(例えば教育改革を遂行すること)が自らの生の意味の中核を構成しているかのように誘導してきた。しかし、自らの人生をスタイル(様態)の観点から捉え直そうとするとき、自らの人

          スタイルの存在論

          古人と存在論的孤独

           先日、横山大観について議論する会があった。そこで発表者は「横山大観の富士絵には、豪華絢爛さの裏に、名状したがい寂しさがある」と指摘していた。その指摘に対し、私は最もだと思った。  その議論の際、私は松尾芭蕉を参照した。松尾芭蕉と横山大観では生きた時代も芸術ジャンルも異なるが、松尾芭蕉は「侘しさの裏に、つながりがある」点で、横山大観とは対照的であると感じられたからである。  私は、横山大観と松尾芭蕉の決定的な違いは「古人との距離」にあると思う。試みに、大観と芭蕉、それぞれが

          古人と存在論的孤独

          教えることの本質は学んでほしい内容と生徒の経験を結び付けることにあるーデューイ『民主主義と教育』読書メモ(第14章)

          体的・対話的で深い学びを実現するためには、先生の役割は教える人(Teacher)から別のものに変わる必要があると主張されることがある。変わるべき役割の代表格は、導く人(Coach)、繋ぐ人(Coordinator)、滑らかにする人(Facilitator)といったものである。どれであっても先生は「教える」ことから解放されるべきである、という含意がある。 果たして、先生は「教える」ことをやめるべきなのだろうか。「教える」と生徒の主体性が育たなくなるといった言説とともに、しばし

          教えることの本質は学んでほしい内容と生徒の経験を結び付けることにあるーデューイ『民主主義と教育』読書メモ(第14章)

          興味とは当事者意識のことである-デューイ『民主主義と教育』読書メモ(第10章)

          意欲、興味、関心、ワクワク、そして当事者意識。子どもが学びに向かう姿勢を形容した様々な言葉である。「子どもが興味・関心を持てるような授業をしよう」というのは、現代のゴールドスタンダードになりつつある。それでは一体、興味とは何なのだろうか。 興味とは何かを改めて考えると、極めてあいまいにしか理解できていないことに驚かないだろうか。確かに、この驚きをおぼえるのは思考力や観察力の乏しい私だけなのかもしれない。しかし、少なくとも私は「興味とは何か」と問われたときに、一言で答えられる

          興味とは当事者意識のことである-デューイ『民主主義と教育』読書メモ(第10章)

          探究の結果として習得がある(デューイ『民主主義と教育』読書メモ, 第11章)

          知識詰め込み型の学習か、探究型の学習か。紋切型の二項対立であり、問い自体がおかしいと切って捨てたくなるが、よく考えると検討する価値のある問いでもある。しかし、二項対立の問いをそのまま引き受けるのはあまりに不毛すぎる。 では問うべきは何か。それは「知識習得」と「探究」の関係ではないか。両者がどういう繋がりを持っているか説明できる言葉を持っておくことは、混迷を極める現代で(いい意味で)真面目に教育をやっていくためには不可欠なことなのではないかと思う。 ジョン・デューイ『民主主

          探究の結果として習得がある(デューイ『民主主義と教育』読書メモ, 第11章)

          桜はなぜ美しいのか - 和歌と俳句を辿りながら、散る桜の美しさと、記憶や祈りとの連関を考える -

          なぜ私たちは桜をみて美しいと感じるのだろうか。なぜ私たちは花の中でもことさら桜に関心を持つのだろうか。桜に宿る不思議な力は何に支えられているのか。改めて問うとうまく言葉にできないことに気付く。 桜の美しさを感受する精神はもはや無自覚に受け継がれている。水原紫苑さんの書いた『桜は本当に美しいのか』という本は、それを改めて相対化して言葉にするよき伴走者である。水原さんは今なお精力的に活躍する歌人であり、その水原さんが古代から現代まで桜に関連する歌を取り上げて批評している本である

          桜はなぜ美しいのか - 和歌と俳句を辿りながら、散る桜の美しさと、記憶や祈りとの連関を考える -

          代替不可能性が時間と共に失われていき、ついには代替可能性となることについて

          私たちは代替不可能でありたいと願う。しかし、根源的には、代替可能な存在でしかないことも知っている。人生も日常生活もその狭間にある。私たちは、常に代替可能であることの痛みと、代替不可能であろうとする志向性を携えて生きている。それゆえに、「私は代替不可能である」ことを感じたときの喜びはひとしおで、「私は代替可能である」ことを知ったときは絶望に近いものがあるのかもしれない。

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          代替不可能性が時間と共に失われていき、ついには代替可能…

          努力しない興味は「興味」と呼べるのか?|デューイ『民主主義と教育』(10章: 興味と克己 Interest and Discipline)

          近年、教育現場では「興味・関心」という言葉が、一つのバズワードになっている。例えば、文部科学省・中央教育審議会の「令和の日本型学校教育」という答申には、「興味」という言葉が97回も出てくる。また、経済産業省の「未来の教室」が示すビジョンにおいても、「ワクワク」との出会いを重視しており、提言の中では「興味関心」という語が頻繁に使われている。 しかし、こうした答申や提言を読んでも、興味・関心とは一体なにか?については解説してくれない。そこで今回紹介するのが、ジョン・デューイ『民

          努力しない興味は「興味」と呼べるのか?|デューイ『民主主義と教育』(10章: 興味と克己 Interest and Discipline)

          ハンナ・アレント『カント政治哲学講義録』読書ノート(後編)

          ハンナ・アレント『カント政治哲学講義録』読書ノートの後編です。今回は第十一講義から第十三講義をまとめます。全体を貫く謎は「なぜ判断が趣味に基づくのか?」で、判断と構想力や共通感覚の関係性が語られています。 分断が話題になる昨今ですが、アレント=カントから「その判断、自分の身内以外にも説明できるの?」と問われ、背筋の伸びる内容になっています。エリートが自己利益のための判断を繰り返しているのが分断の確実に大きな一因になっているわけですが、その流れへの思想的な武器としても有用かも

          ハンナ・アレント『カント政治哲学講義録』読書ノート(後編)

          ①決断の前に何度か考えよ、②指摘を素直に受け取れないのは危険信号、③”いま”ご褒美がもらえる仕組みをつくれ -- 「事実はなぜ人の意見を変えられないのか」の読書ノート

          この記事は、ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか -- 説得力と影響力の科学 -- 』の読書ノートである。私が受け取ったことは必ずしもSharotが言おうとしていたことと一致していないので、気になった方はぜひ原著をお読みください。 ①決断の前に何度か考えよ私は、大事な決断をするとき、那須高原に行って、何日間かこもって考えることにしている。第一に、心理学徒として、大切な決断を前にしたとき、人間は直観的な判断をしがちであり、色々と理由を述べていても直観の後

          ①決断の前に何度か考えよ、②指摘を素直に受け取れないのは危険信号、③”いま”ご褒美がもらえる仕組みをつくれ -- 「事実はなぜ人の意見を変えられないのか」の読書ノート