古人と存在論的孤独

 先日、横山大観について議論する会があった。そこで発表者は「横山大観の富士絵には、豪華絢爛さの裏に、名状したがい寂しさがある」と指摘していた。その指摘に対し、私は最もだと思った。
 その議論の際、私は松尾芭蕉を参照した。松尾芭蕉と横山大観では生きた時代も芸術ジャンルも異なるが、松尾芭蕉は「侘しさの裏に、つながりがある」点で、横山大観とは対照的であると感じられたからである。

 私は、横山大観と松尾芭蕉の決定的な違いは「古人との距離」にあると思う。試みに、大観と芭蕉、それぞれが古人ともっていた距離を「外在的・内在的」と「道具的・仲間的」の2つの軸で分析してみる。
 大観と古人とのつながりは「外在的」であった。横山大観にとって、古人はあくまでも己の外にあるものであった。それは限りなく接近することはできるが、己と同化することはないものである。一方で、松尾芭蕉と古人との関係は「内在的」である。芭蕉にとって、古人は常に己とともにある存在であった。己の感動そのものも古人との関わりとして生まれてくる。いうなれば、古人から離れたところで芸術的な自我は成立しない。
 大観と古人は「道具的」な関係であった。大観にとって、古人とは己の探求する芸術を実現させるための技術や素材をもたらしてくれるものにすぎなかった。一方で、芭蕉にとって芸術の道は、古人が求めた道をともに探求することそのものであった。芭蕉にとって、古人は風雅の道をともに探求する仲間であった。ここでは「仲間的」な関係と名付けてみた。

 芭蕉と古人との関係でいえば、おくのほそ道と許六離別の詞の2つが有名である。おくの細道では「旅」をキーコンセプトに、月日と古人と己を重ね合わせている。芭蕉が「漂白の思ひ」やまなくなったのは、旅で死んだ古人のことを思い、それと同化していたからであることも示唆される。一方、許六離別の詞では、古人の「跡を求める」ことを戒めている。これは古人が実施したことを形だけなぞることを戒めたものである。むしろ、芭蕉が推奨したのは「古人の求めたるところを求める」ことであった。つまり、古人が探求した風雅の道を共に探求する心構えを芭蕉は説いていた。この2つの箇所からも、芭蕉と古人の関係が内在的・目的的である点が見えてくる。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる者は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず […](おくのほそ道)

古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」と、南山大師の筆の道にも見えたり。「風雅もまたこれに同じ」と言いて、燈火をかかげて柴門の外に送りて別るるのみ。(許六離別の詞)

松尾芭蕉『おくのほそ道』『許六離別の詞』

 さらに面白いのは「去来抄」における芭蕉の言葉である。去来抄とは、芭蕉の弟子の一人である去来が、芭蕉とのやり取りをまとめたものであり、芭蕉の考えの一端にふれることができる。
 去来抄では「行春をあふみの人とをしみける」という芭蕉の句が話題になる場面がある。芭蕉が去来に問いかける。近江→丹波、行春→行年と言い換えることができるため、この句の完成度は高くないという批判についてどう思うか、と。つまり、ここでは近江や行春の必然性が問題になっている。
 この問いかけに対する芭蕉の答えは「古人も此国に春を愛すること、をさをさ都におとらず」である。なぜ古人が「近江」の必然性を担保するのかというと、近江は「歌枕」であるからである。歌枕は、歴史の中で、読みつがれてきた伝統に立脚する。歴史の積み重ねの重み、そしてその歴史を共有している共同体の存在が、必然性を担保するのである。

名勝は、ただ「眼前」を詠めばよいと思っていたのであり、理解、鑑賞も、そのように為せばよいと思っていたのである。ところが、「歌枕」には、「眼前」の景以外に、古人の歌(歌群)によるイメージが纏わり付いていたのである。詠み方も読み方も、そこにまで意を配る必要があったのである。

福本一郎『芭蕉の言葉』

 去来抄からは、芭蕉と古人の関係、つまり内在的で仲間的な関係が歴史の積み重ねと共同体の存在に裏打ちされていることが理解できる。芭蕉にとって、古人は同じ共同体に属する仲間であった。ゆえに、心の中で西行に己の句の味わい深さに関し、賛意を求めることもあっただろう。全国の歌枕を訪ねた際は、心の中で古人と何が美しいのかを語り合うこともあっただろう。
 こうした古人との関わりが孤独な個人の内言ではなく、実感のともなった古人との共同探求でありえたのはなぜか。それは古人が残した歌があったからである。芭蕉は古人の詠んだ歌を通じて追体験しており、古人と同化することができていた。芭蕉が「友なきを友とする」(閉関の説)ような侘びの境地を追い求めつつも、芭蕉の句から存在論的な孤独の匂いがしないのはこういった次第によるのだろう。

 もう一本補助線を引いてみる。カント『判断力批判』である。
 カントは、趣味判断(物事の味わいを感じる能力)は、主観的なものであると同時に、客観性を要求しうるものであると語る。言い換えれば、なにかを美しい、味わい深いと思うとき、それは個人の主観においてたち現れてくるが、と同時に、単なる主観に閉じることなく、他者にこの美しさや味わい深さを伝えたい、伝わるはずだと思えるということである。カントは、こうした趣味判断の特質が存立する前提として「共通感覚」をおいた。
 したがって、こうした趣味判断は、論理的な判断や、道徳的な判断とはことなるものである。趣味判断が共通感覚を前提とするとき「共通感覚」をもつ人々の集合をどう考えるかが重要になる。なぜなら賛意を要求する共通感覚の持ち主でしか、この議論は成り立たないからである。
 歴史の積み重ねが共同体の美意識を磨いてまとめあげ、その共同体から新しい芸術がうまれ、それに基づき共同体の趣味判断が変容する。こうした再帰的でありつつも、パラダイム・シフトを許容する運動が芸術にはある。こう考えると、芭蕉が共通感覚に根ざした対話へとなり得たのは、歴史の積み重ねがある芸術を探求したことが前提となっているとも言える。
 一方で、大観は「共通感覚」をもつ「共同体」の一員として、古人をみなしてはいなかったのではないかと感じる。いくら大観が「伝統の裏付け」を重視していた天心の弟子であったとしても、伝統とは別立ての「理想」を追い求め、新しい美術をつくることにこだわっている限り、その孤独は癒やされることがなかっただろう。「古人の求めたるところを求める」精神、つまり過去の蓄積として現にあるものを土台にして道を探求する精神が、侘びのなかにもつながりを感じさせたのだろうと感じる。

 私には、ときどき、どうせこの世には一人で生まれてきて、死ぬときも一人であって、生きている限り、私は私であり続けないことを改めて悟る瞬間ことがある。こうしたとき、日々接している友人との関係は刹那的・偶然的なものに思えてくる。これは、友達が信じられなくなったといった水準の心理的・社会的な孤独ではなく、いくらよい友達に囲まれていても決して解消されえない孤独である。自我という概念が流布している近代社会では、多かれ少なかれ、この存在論的な孤独は誰もが抱えているものだろう。
 私は大観と芭蕉の対比から、古人と共に生きることが存在論的孤独を癒やすこともありうるかもしれないと思った。芭蕉の生き方からは、歴史性が代替不可能性を形成することを再度認識することができる。
 確かに現にこの世界は〈私〉の視界からしか開けておらず、おそらく生まれてから死ぬまで私は〈私〉なのだろう。私は、他者の視点から世界をみることはできず、結局は、他者は他者であって私とは異なる存在であり続けるのだろう。それでも、過去にこの世に確かに存在した古人が残したものをたどり、その古人が「求めていたところのもの」を共に探ることにより、古人の精神を自分の中に据え付けることができる。古人と同居し、古人と対話することで、存在論的な孤独も少しは和らげることができるかもしれない。
 私たちは自我を持ってしまった。私たちは神は死んだことを至るところで実感する社会に生きている。そうして、全てが偶然で刹那的だが、絶対的な価値を持っていてほしい自我とともに生きるしかない、苦しい立場においこまれている。しかし、そこで思いだすべきは、かつてあったことは偶然の中でも異なる位置をしめていることである。すでにあったものは、もう消え去ることはない。すでにあったものは、もういない人も含めて共有できる。
 現在と未来には存在論的孤独を癒やすものはない。しかし、過去と現在には少なくとも出発点は存在する。いや、古人と共に生きる生き方には、そもそも存在論的孤独は最初から存在しないのかもしれない。

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