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変化

過去を気にするより『今』と『未来』へ目が向くようになれたのは割とこの2,3年でした。
こんな風に振り返ることもすでに過去に目がいってるんだけど。それにしてはずいぶんと比重が変化したのでじぶんの中では良しとしてみる。いったい何に対してだろう?世間一般に対してかなと思いつつそれはどっからどこまでで、基準すら曖昧なことにこうして書きながらぼんやりと考えをめぐらせる。やっぱり、はっきりとした線は見えない。

たった6行書いてみて文章読みにくいなぁと。なんとも不格好で不器用な感じがにじみ出てるのが特徴かなって思うしときどきは色気のある文章がかきたいものだけど、そんな文章にも出会った記憶がない。
いや、待てよ。
あらためて思い返すとこれまで読んできた人の中に数人いらっしゃったぞ。

どなたもぼくより先輩で理解を押し付けるようなことはなく『何か』がにじみ出る文章を読んでいて心地よさすら感じる。
強い言葉やふざけた言葉も使ったりするけれど、かならずやさしさを携えているようにも感じるし
愛のようなものを内包しているようにも感じ取れる。正解かはわからないけどぼくにはそうとれる。

不思議なことは生きていると色々ある。本当に。ただ知らなかっただけなこともあれば知ったけどよく理解できなかったりさらに深いところに真実のようなものがありそうな匂わせなことに出逢うときもある。あるにはある。

ここでいう『不思議』とは、疑問のことだ。琴線に触れるとも言い換えれるかもしれないしただなにかの不正解に引っかかってしまっただけかもしれないのだけどかえって正解を求めてしまう。こうかもしれないし、こうじゃなくここにつながる、あるいはつなげることができるのじゃないかと。

成長や変化はこの不思議に思える部分が変わってくるのかもしれない。そこの真実は知ってるけど、それを踏まえてもここはどう説明すればいいんですか?っていう新しい着眼点のようなものが生まれてくるから面白い。

人生って誰かいってたけどゲームみたいだし、こたつの上の蜜柑みたいだし音楽の譜面のようだったり、溶けかけたアイスのようですね。

最後のはたぶん、だれも言ってませんね。




だれかのために書いてみようと思っても特定のだれかがいてくれないと書きにくいのだと思う。ぼくの場合。

できれば言葉を交わし、あわよくば顔を合わせて、みたい。とくに離れた場所に暮らす人に対してその想いが顕著にでる。

言わなければ伝わらないことは理解しています。でもその声のかけ方、つまりはその人にとって軽い言葉で声をかけたい。

コミュニケーションは嫌いじゃないけど、得意でもないのは、そのあたりをいったりきたり逡巡してしまうことであきらめてしまうからかもしれない。

私生活にも出てる。伝えたい相手が聴く状態になってないと、わるいから
「いっか、またで」とか「今は違うんだろうな」ってひっこめちゃう。

そーいうのって大事だとおもうけど、気を使いすぎなのかもしれないし自信がないだけなのかもしれないとも思う。

実際はどっちも半々くらい

なにが悪いってもんでもなくて、そろそろ自信もって言葉を発していいんじゃないかと眠気と戦いながら思考を垂れ流させてもらっているわけです。

今日もこたえのない答えを探して。

本当は『応え』を求めてるだけなのかなぁ。なやんだときは人頼りになるのも最近の変化かもしれんな。

とか考える今日この頃です。

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